四島のかけ橋
第38号 北方領土返還要求運動神奈川県民会議
平成18年1月1日 発行人:綾井 祐一
日本大通りから見上げた県庁 第21回県民大会を開催   
日本大通りから見上げた県庁 会場は横浜情報文化センター
 北方領土返還要求運動神奈川県民会議(会長 牧島功神奈川県議会議長・加盟四十四団体)では、昨年11月24日(木)午後六時より、横浜市中区日本大通11「横浜情報文化センター」情文ホールにて、第21回北方領土返還要求運動神奈川県民大会を開催した。同大会の会場については、二.三の例を除き大体において「神奈川県民ホール」を使用していたが、交通の便がやや悪く参加の皆さんも不便を感じられておられたので、今回は、県職員関係者のお骨折で、会場を新たにした。定刻6時、石渡由紀夫事務局次長(連合神奈川副事務局長)の司会により、主催者側を代表として牧島会長の挨拶、来賓として松沢成文神奈川県知事より、会員各位の努力に対する敬意と、今後も更なる活動を期待しますとの挨拶があり、次いで、独立行政法人・北方領土問題対策協議会(北対協)井上達夫理事長より、プーチン大統領の来日は、領土問題への進展は無かったが、気をしめて更なる活動を共に進めようと挨拶された。綾井祐一事務局長よりの年間活動報告、「みんなで考えよう知ろう北方領土」のビデオ上映後、都甲岳洋元駐ロシア大使の記念講演(2面参照)があり、同8時、盛況裡に閉会した
理事会
 大会開催前の同日午後5時より、会場別室にて理事会を開催。従来の総会、大会当日のみの理事会の他に、年間少くとも2回は理事会を開き、当面する会員の拡大確保、青少年に対する教育等に関する事を協議することで意見の一致をみた。
横浜情報文化センター

2月7日は 「北方領土の日」
 毎年、2月7日は、「北方領土の日」です。これは、北方領土問題に対する国民の関心と理解をさらに深め、全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図るために設けられたもので、昭和56年1月6日の閣議により決められています。2月7日は、1855年のこの日(旧歴では安政元年12月21日)伊豆の下田において日露通好条約が平和裡に調印された日です。この条約によって、日露両国の国境が定められ、択捉島など北方四島が日本の領土として初めて国際的にも明確にされました。この歴史的な意義と、平和的な交渉によって、領土の返還を求める運動の趣旨から、2月7日は、「北方領土の日」として最も適切な日とされました。本年も2月7日(火)、東京都千代田区の九段会館で、全国大会が催されることとなっています。この日、小泉内閣総理大臣の挨拶があり、壇上には自民党は勿論、共産党に至るまで与野党代表の国会議員が居並び、文字通り国民的集会と成っております。詳細につきましては、別途、事務局から加盟団体へご連絡しますので、ご参加をお願いいたします。

平成17年の主な活動状況報告
2月7日(月) 「平成17年度北方領土返還要求全国大会」
東京都千代田区「九段会館」出席者 68名
4月23日(土) 「平成17年度都道府県推進委員全国会議」 静岡県「下田ビューホテル」 蓮見推進委員、米岡県職員
5月27日(金)
 ~28日(土)
「第23回関東甲信越ブロック北方領土関係者会議」「第18回関東甲信越ブロック北方領土返還要求都・県民会議連
絡協議会」「第9回北方領土返還要求事務担当者ブロック会議」
群馬県「高崎ワシントンホテルプラザ」蓮見推進委員、米岡県職員
7月25日(月) 「平成17年度県民会議理事会・総会」 横浜市「もみじざかじょいぷらざ」出席者 41名(委任20名含む)
7月30日(土)
 ~31日(日)
「第19回北方領土返還要求運動関東甲信越青少年交流会」 参加者 4名(中学生3名 教員1名)
8月11日(木)
 ~13日(土)
「北方領土問題青少年・教育指導者現地研修会」 参加者 5名(高校生4名 教員1名)
10月17日(月)
 ~19日(水)
「北方領土パネル展2005 IN かながわ」 場所 かながわ県民センター1F展示場
9月25日(日)
 ~26日(月)
「北方領土返還要求運動国民集会 in NEMURO」「都道府県民会議代表者全国会議」「祈りの火」分火式
参加 蓮見推進委員、志村県職員
10月12日(水)
 ~14日(金)
「北方領土視察研修事業」(目で見る北方領土の旅) 根室市納沙布岬等 参加者 16名
11月24日(木) 「第21回北方領土返還要求運動神奈川県民大会」 横浜情報文化センター情文ホール
機関紙「四島(しま)のかけ橋」発行 36号、37号

灯  台
 昨年11月20日、プーチン大統領が来日した。「北方領土」について一言もなく何らの進展もなかった。来日前の彼の発言からして、この問題についての熱意の無いことは判っていたが、100人を越す経済関係の要人を連れて来たことに、彼の目的が何であるかと思い知らされ、呆れると共に怒りがこみ上げてきた。日ロ共同声明もなく、取材の必要もないのか、こちらの報道関係も特別の取り上げもなく、或る新聞に至っては、こうなったのもロシア側だけのせいでなく、日本側にもあったとあり、またまた唖然とした。大会で約一時間に亘り、ロシアの歴史について語られた元駐ロシア大使都甲岳洋氏(とごうたけひろ氏)の記念講演で、帝政ロシアから、革命により共産主義国家となり、それも近年70年の歴史を閉じ共産主義体制は崩壊し今日に至っているロシア。筆者は平成5年にビザなし交流で国後、色丹へ行ったが、当時ロシアではエリツイン大統領の下で内乱的混乱があり、筆者が現島民に「お国も大変だね」と問いかけたところ、『あれは、時が経過すれば収まるよ』と平然としていた事を思い出す。これは、ほんの一例だが、有史以来初めての敗戦、そして勝者による占領を受けた日本と、国家体制の激変を自他ともに血をもって克服してきた国民性の相違が、「領土問題」を一層難かしくしていると思う。
四島のかけ橋 平成18年1月1日  (2)
隣国ロシアとの関係について
とごうたけひろ
元駐ロシア大使 都 甲 岳 洋  氏
日ロの歴史的相違
 日本とロシアの歴史的経験の中で、決定的な差異は、島国であった日本と、大陸国家であったロシアの差異でした。ロシアは、その歴史の中で、何度となく外国の支配や侵略、国家の崩壊を経験しました。日本は、2000年以上の歴史を持ちながら、万世一系の天皇の下、島国であるゆえに、二度の元寇も乗り切り、鎖国により植民地主義の侵功を防ぎ、第二次世界大戦の敗戦で初めて米国の主導する連合軍の占領下に置かれたという点では、ロシアと大きく異なります。しかし、幕末に欧州に範を取り近代化を進め、戦後は米国を模範として民主化が行われたということは、ロシアの経験と共通の面があります。 都甲岳洋氏
鎖国時代の日ロ関係
 ロシアが日本に関心を抱き始めたのは、17世紀末に太平洋まで領土を拡大してからです。ロシアの歴史は、領土拡大の歴史でした。(この頃から、いわゆる南下政策であったのか。)日本に毛皮を売り食料を確保するため、日本との交易の実現が主要課題となりました。日本からの漂流者を厚遇、保護し、日本の事情を聴取し、帰化させ役人として国立の日本学校の教師をさせたりしました。漂流民を送還し日本との交易を実現するため、何度か使節団を送りましたが、鎖国を国是とする徳川幕府はこれを頑なに拒否をするなど、極度の警戒から誤解や、無理解を生み、日ロの関係は好転するどころか、無用な摩擦や事件も起きました。
幕末時代の日ロ関係
 1855年2月7日に日ロ和親条約締結、択捉島以南を日本領に、ウルツプ島以北をロシア領とし、樺太は国境線を定めず混住の地とすることに合意しました。この間、1854年11月4日の下田大地震による津波で下田も大被害、ダイアナ号も損傷激しく最終的に戸田港で修理するため回航中11月28日に台風にあい沈没の事件があり、ブチヤーチン以下538名の乗組員は5百戸3000人の漁村に三ヶ月以上滞在し、住民の暖かい接遇を受け、日本人の船大工が100トン余の洋式艦船を建造、一部は米国船で、他はこの新造船で帰国した。和親条約が調印されて今年は150周年に当ります。また、1858年7月には日ロ修好通商条約の締結をみるに至りました
明治初期の日ロ関係
 明治政府は、1875年に、いわゆる樺太・千島交換条約を結んだが、日本国内では豊かな樺太の代りに不毛の千島を押しつけられたとし、ロシアではロシア領である千島列島を与へたのはけしからんと、日ロ双方の国民が不満を高め、加えて1891年、親善旅行で訪日したニコライ皇太子が大津市で、警備の巡査に切りつけられるという事件も起るなど、険悪な様相を呈した。1905年、日ロ戦争に勝った日本は、ポーツマス条約で南樺太を譲り受けたが、世論の不満が高まり、東京の交番の八割が群衆により焼打ちにあうなど事件が多発した。明治政府の重要課題は、不平等条約の改定の実現にあったが、これらはほゞ同時に、当時、アジアにおいて激化しつつあった列強の帝国主義的競争に参加していくこととなった。
ロシア革命について
 19世紀から20世紀初頭にかけて、欧米列強はアジアへの植民地獲得競争を激化しつつあった。そして、自国の利益優先の考へから、或る時は合意行動を共にし、或る時は離反するなど、問題によっては紆余曲折するなど複雑を極めた。1904年、日ロ戦争に突入し、日本は戦争には勝ったが、その後の条約外交では国民の不満を買った。そして、1917年のロシア革命は、日本帝国主義外交を根底から揺るがし、反ソ、反共産主義が日本外交の基礎となった。
第二次世界大戦
 1937年7月、日中戦争が勃発、1945年8月までの8年間の戦争となった。米国の支援と中国国民の強い抗日運動に戦争は泥沼化し、加えて国際連盟脱退、南方への戦線拡大等の行為により米英のみでなく国際世論を敵に回すことになったが、この間でも日ソ関係は比較的穏やかであった。しかし、満州方面に大規模な軍事力の展開を行い、不可侵条約の提案に応じない日本の姿勢に、ソ連への侵略の野望を感じたソ連は、やがて極東での軍事強化に走り、いわゆるノモンハン事件となった。(この戦いで日本はソ連軍の戦車等兵器の優秀さを知り、極秘ではあったが日本軍の敗北の報はもれた。=筆者)やがて、ナチ・ドイツの台頭による初期の欧州戦の勝利、日・独・伊の防共協定(三国同盟)、独・ソ不可侵条約、日・ソ中立条約等、各国の対応は入り乱れ複雑を極めた。この間、日米交渉はワシントンで行われていたが、米国より、日本の中国よりの全面撤収という当時の日本として絶対承服出来ない最後通牒を受け、1941年12月、遂に日本は米英に宣戦布告し、太平洋戦争(大東亜戦争)となった。
敗戦と東西冷戦
 1945年2月のヤルタ協定において、ドイツ降伏三ヶ月で対日参戦を約束し、対日参戦の条件として、日ロ戦争で失った樺太南部の領土と満州における権益の回復と千島列島の引渡しを要求した。さらに日本の占領と管理に積極的参加を主張し、スターリンは、留萌から釧路の間に線を引き、その北半分をソ連の占領下に置くことを要求、独と同様に日本も分割統治せんとしたが、米、トルーマン大統領は、北海道云々について断乎拒否した。ソ連は、1945年8月9日、(終戦一週間前)当時なお有効であった日ソ中立条約(不可侵条約)に違反し対日宣戦布告し、日本がボツダム宣言を受諾し降伏の意図を明確に表明した後に、千島列島のみならず、択捉、国後、歯舞、色丹の北方四島を占領し、満州方面も含めて約60万人の日本軍人等を捕虜として抑留、強制労働につかせて、そのおよそ10分の1を死亡させた。特に北方四島については、米軍の不在を確認したうえで、8月28日から降伏文書を署名した9月2日を越えて9月5日までの間に占領し、約17,000人の島民を追放した。9月2日、スターリンは『ソ連国民に対する呼びかけ』の中で、(自分たちが倒した帝制ロシアなのに)日ロ戦争での敗北は、わが国に汚点を印し、40年間わが国民は、日本が粉砕され、汚点が一掃される日を待ったが、ここにその日が訪れたとのべたのである。第二次大戦後、ソ連はバルト三国を併合、中東欧諸国も共産主義の支配下におき、東西冷戦時代が始まり、米・ソは極東においても、中華人民共和国の成立、朝鮮戦争等で激しく対立し、日本の占領政策においても激しい対立が見られた。1951年のサン・フランシスコ平和条約で、日本は主権を回復しましたが、ソ連はこの条約が極東における新たな侵略戦争を準備するものである等の理由をあげて、調印を拒否しました。日本は、同条約において南樺太と千島列島についての権利、権限、請求を放棄しましたが、これらの地域が最終的にどこに帰属するかは、決められておらず、また、「千島列島」には、日本の固有の領土である択捉島、国後島、歯舞群島、色丹島は含まれていないとの立場を明らかにしてきている。
日ソ共同宣言
 ソ連時代の日ソ関係は、東西関係や、中ソ対立等の要因が影響し、解決の方向に動いたかと思うと、解決済みとの硬い態度に戻り、共産政権特有のご都合主義外交が繰り返され、相互の不信感が増幅されていった。その後いろいろな曲折を経て、1956年10月19日、日ソ共同声明が署名され、日ソ外交関係の再開、抑留者の帰還、日本の国連加盟の支持、通商、漁業協定の締結と約束、平和条約交渉の継続に合意、平和条約締結後に歯舞群島と色丹島が日本へ引き渡されることが規定された。1960年の日米安保条約改定に関し、ソ連は、日本からすべての外国軍が撤退しない限り、歯舞群島、色丹島は引き渡せないとの条件を付し、1961年9月、フルシュチョフ首相は池田総理に『領土問題は、一連の国際協定により久しき以前に解決済み』と再び強硬姿勢に戻った。
1973年・日ソ共同声明
 1973年10月、日ソ両首脳会談で、シベリア資源共同開発を含む経済協力、戦後未解決の問題解決し平和条約を締結する交渉を継続することを盛り込んだ日ソ共同声明を発表。田中総理は、ブレジネフ書記長に、未解決の問題に四島が含まれていることの確認を求め、彼も同意した。当時の背景は、米、ソの平和共存ムード、日本経済の好調、ソ連経済の行き詰まりという状況だった。その後、内外の事態が急変、やがて第二次冷戦時代が始り、日ソ外相会談は八年間中断、両国間の緊張の連続となった。
新生ロシアとの交渉
 1993年12月、エリツィン大統領訪日の東京宣言で、四島の問題を「法と正義」に基き解決し、平和条約を締結すると指針が示された。次いで1997年11月のクラスノヤルスクにおける橋本総理とエリツィン大統領の非公式会談で、「宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことを合意、更に1998年4月の川奈非公式会談、同年11月の小渕総理の公式訪問と続いたが、1999年12月、エリツィン大統領の突然の辞任により、これらは解決を見ずに終った
日ロ関係は良好に
 2000年5月に大統領に就任したプーチンの下で、日ロ平和条約交渉も引き継がれ、これまで達成された両国間のすべての諸合意に依拠して、四島の帰属の問題を解決して平和条約を締結する交渉を継続し、具体的方向性を早期に決定することで合意をみている。1999年9月のプーチン大統領の訪日に際しては、全般的な日ロ間の協力関係の推進と平和条約交渉問題を平行して進めるための日ロ共同行動計画に合意。最近の日ロ関係は、政治、経済、防衛、科学文化の分野での協力等で全面的な協力の強化発展が見られ、過去に敵対関係にあった防衛当局の間でも、交流と共同演習が行われ、経済分野でも、高成長を続けるロシア経済を背景に、貿易も昨年は90億ドルと過去最高になり、また、サハリンにおける石油、天然ガスの共同開発が進んでおり、東シベリアからアジア太平洋への石油パイプラインの建設と油田の開発における日ロの協力など、日ロ間の協力は全面的に進んでおり、日ロ関係はかつてない程良好である。
四島返還は悲願
 今更言うまでもなく、日本側は四島の返還を求め、ロシア側は、歯舞、色丹の二島を引き渡すことで領土問題の決着をつけようとしており、この事は、日ロ間の経済はじめあらゆる分野の交流、協力とは異質であり、別問題であります。過去200年以上にわたる日ロ関係の歴史の中で、領土問題が絶えず不信の原因であったことを考えれば、最終的解決が見られ、歴史的和解が図られることの重要性は多言を要しないと思います。静かな粘り強い話し合いを通じ、立場の異なる領土問題について、四島の帰属の問題が解決されれば、21世紀の両国関係にとって、真に明るい展望を開くことになるでしょうし、世界から祝福を受けることになると思います。これからも、皆さんの運動が、国民の悲願達成のため大きな役割を果されるよう強調し、また期待いたします。

編集後記
◇ 明けましてお目出とうございます。本年も「四島のかけ橋」を、どうぞよろしく。
◇ 今年は、戌(いぬ)年、返還運動が犬の遠吠にならぬよう、がんばりましょう。
◇ 記念講演は、約一時間に及ぶもので、全部記載するのは至難でした。悪しからず。
(蓮見)

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