北方領土に関する各種資料
外務省 われらの北方領土 2010年版より抜粋
国交回復後の経緯

( 1 ) ソ連の態度の硬化

 日ソ共同宣言が発効した1956年12月12日から始まった戦後の日ソ関係は、両国が、「平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意」したことを前提とし、やや変則ですが、平和条約の締結を待たずに共同宣言の発効を起点とすることで開始されました。

 この共同宣言は、標題こそ「宣言」という語を使用していますが、両国の国会、最高会議の承認を受けて批准され、国連にも登録された法的拘束力を有する国際約束であり、戦後の両国関係を律する最も重要な基本文書です。この共同宣言の発効により日ソ両国間の国交が再開されてから、両国関係は、経済、貿易、文化等様々な分野において順調な発展の緒につきましたが、こうした日ソ関係の進展にもかかわらず、ソ連政府は、1960年の日米安全保障条約締結に際して、日ソ共同宣言で合意された歯舞群島及び色丹島の返還実現の前提として、日本領土からの全外国軍隊の撤退という全く新たな条件を一方的に課してきました。

 すなわち、1960年1月19日、岸総理はワシントンで新しい日米安全保障条約に署名しましたが、1月27日、ソ連政府は、日本政府に対して覚書を発して、その中で、歯舞群島及び色丹島を「日本に引き渡すことによって、外国軍隊によって使用せられる領土が拡大せられるがごときことを促進することはできない」として、日本領土からの全外国軍隊の撤退及び平和条約の調印を条件としてのみ、歯舞群島及び色丹島が日本に引き渡されるだろうと声明しました。

 これに対して、日本政府は、2月5日付けのソ連政府に対する覚書において、日ソ共同宣言という厳粛な国際約束の内容を一方的に変更し得ないこと、日ソ共同宣言が調印された際、すでに無期限に有効な安全保障条約(注、旧安全保障条約のこと)が存在し、我が国に外国軍隊が駐留しており、同宣言は、これを前提とした上で締結されたものであることなどを指摘しつつ、共同宣言の内容を変更しようとするソ連の態度は承認できない旨反論しました。その後、1961年9月、フルシチョフ首相は、池田総理に対する書簡の中で、「領土問題は一連の国際協定によって久しき以前に解決済み」である旨述べ、北方領土問題に関するソ連側の姿勢は更に後退しました。

( 2 ) 田中・ブレジネフ会談

 日ソ共同宣言で合意した平和条約締結交渉の開始も遅れていましたが、1972年1月、第二回日ソ外相定期協議のため来日したグロムイコ外相は、初めて交渉開始に同意し、同年10月、訪ソした大平外相とグロムイコ外相との間で第一回目の交渉が行われ、今後も話合いを継続することが合意されました。

 ソ連側のいわば16年ぶりの「柔軟姿勢」は、当時支配的であった東西間の一般的な緊張緩和の雰囲気とも関連するものでした。1973年3月、当時の田中総理は、ブレジネフ書記長あて親書で、ソ連との善隣関係の確立のためには平和条約の締結が不可欠であると強調するとともに、年内に第2回目の平和条約交渉を続けることを提案しました。これに対するブレジネフ書記長の返簡は、総理のモスクワ訪問を歓迎するとの趣旨のものでした。

 このようにして田中総理は、1973年10月7日から10日までの間、ソ連を公式訪問しました。我が国の現職の総理による訪ソは、国交回復時の鳩山総理以来実に17年ぶりのことでした。この公式訪問中、日ソの首脳会談は、10月8日から10日までの三日間にわたり計四回行われ、最大の焦点は当然のことながら北方四島の取扱いにおかれました。

 最高首脳レベルによる厳しい交渉の結果、最終的に北方領土問題が平和条約の締結によって解決されるべき戦後の未解決の問題であることが確認されました。具体的にいえば、ブレジネフ書記長との最終会談で田中総理から、未解決の諸問題の中には四島の問題が入っているということを確認したいと述べたのに対し、ブレジネフ書記長は、そのとおりであると答えました。そこで総理より重ねて、諸問題の中には四つの島が入っていることをもう一度ブレジネフ書記長から確認してもらいたいと述べたのに対し、ブレジネフ書記長はうなずきながら、結構ですと答えました。

 このような両国首脳間のやりとりを踏まえて発表された共同声明は、領土問題に関して次のとおり定めています。「双方は、第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結することが、両国間の真の善隣友好関係の確立に寄与することを認識し、平和条約の内容に関する諸問題について交渉した。双方は1974年の適当な時期に両国間で平和条約の締結交渉を継続することに合意した。」 こうして、国交回復後17年にして、わが国は「領土問題は解決ずみ」と繰り返し主張してきたソ連との間に、北方領土問題に関する交渉を継続することについて両国の最高首脳レベルで合意したわけです。

( 3 ) その後の平和条約交渉

 この首脳会談の合意に基づき、1975年1月、宮澤外相は訪ソしてグロムイコ外相と平和条約締結交渉(第3回)を継続しました。この交渉において、ソ連側は、領土問題に関する日本側の見解は平和条約の基礎となりえない旨述べ、日本側が「現実的な態度」を示すことを求めました。

 これに対し宮澤外相は、真の日ソ善隣関係を確立するためには、領土問題を解決して平和条約を締結することこそ現実的態度であると反論し、重ねて領土問題の早期解決を主張しました。

 結局、共同発表においては、1973年10月10日付け日ソ共同声明の当該部分(第二次大戦からの未解決の諸間題を解決して平和条約を締結する…平和条約の締結交渉を継続することに合意した)を確認するとともに、平和条約の締結交渉を継続するため、1975年中にグロムイコ外相が訪日することが合意されました。1976年1月、前記の合意に基づきグロムイコ外相が訪日し、宮澤外相との間で第4回目の平和条約締結交渉が行われましたが、平和条約締結交渉が日本で行われたのはこれが初めてのことでした。

 この会談では引き続き領土問題が最大の問題として話し合われました。しかしながら、領土の返還に対するソ連側の態度はきわめて固く、具体的な前進はみられませんでしたが、最終的には共同コミュニケで、1973年の日ソ首脳会談の際の日ソ共同声明の当該部分が全文確認されるとともに、同条約の早期締結のため、交渉を継続することが合意されました。1976年、北方領土への日本人の墓参に関して、ソ連側は長年にわたり確立されてきた慣行を無視し、わが国墓参団に対して外国に旅行する場合と同じように有効な旅券とソ連政府の査証を取得することを要求してきたため、墓参は中止のやむなきに至りました。

 これに関し、政府は、このようなソ連側の措置は、北方四島のソ連領帰属を認めさせようとする意図に基づくものであり、とうてい容認できないとの立場を表明しました。以後、1986年8月まで、北方墓参は10年の長きにわたり中断されることとなります。

( 4 ) 日ソ漁業交渉と領土問題

 1976年12月10日、ソ連は最高会議幹部会令により二〇〇海里漁業水域を設定し、さらに翌年2月24日付の連邦大臣会議決定により適用水域を含む実施規則を公布しました。ところが、この適用水域の中に、わが国固有の領土である北方四島の周辺水域が含まれていたため、日本政府は、官房長官談話を発表して、ソ連側のこのような一方的措置はきわめて遣憾であり認められないとの立場を明らかにするとともに、外交ルートを通じてソ連側に対し直ちに抗議しました。

 これに対しソ連政府は、日ソ間にいわゆる領土問題は存在しない、また日本側が人為的につくり出した北方領土問題について話し合うことにソ連は同意したことはないとの口頭声明を伝えてきました。

 このソ連側の声明に対してわが方より、1956年の日ソ共同宣言、松本・グロムイコ書簡、さらに1973年の日ソ首脳会談の際の共同声明で日ソ両国が領土問題の存在を確認している旨反論したことはいうまでもありません。このようにソ連が北方領土問題について1956年の日ソ共同宣言と1973年の日ソ首脳会談の経緯を無視しようとしている状況の中で、1977年3月よリモスクワでソ連の二〇〇海里水域内における我が国の漁業について取り決めるための交渉が始まりました。

 この日ソ漁業暫定協定の締結交渉において、ソ連側はわが方に対し、北海道と国後島の間の根室海峡および北海道と歯舞群島の間の珸瑤瑁(ゴヨウマイ)水道にソ連の国境線を規定している2月24日付けの大臣会議決定を協定に明記するよう迫りました。

 しかし日本政府としてこのソ連提案を受け入れることは、北方領土に対するわが国の基本的立場を弱めることになるので、到底認めることはできず、そのため交渉は長期にわたり難航しました。しかし、その間、北方領土返還を要求する全国民の声が以前にも増して高まり、政府はその支援を背景として粘り強く交渉した結果、領土問題についての我が国の立場をいささかも損わない形で交渉を妥結することができました。

 すなわち、5月27日に署名された「日ソ漁業暫定協定」では第一条で、この協定の適用水域を1976年12月10日付け「ソ連邦最高会議幹部会令」第六条及びソ連政府の決定に従って定められる北西太平洋のソ連邦沿岸に接続する海域と定めることにより、北方四島周辺水域でソ連が漁業規制を実施している現実を認めた上で、その水域においてもソ連の他の二〇〇海里水域と同様の手続および条件により、わが国漁船が安全に操業できることを確保しました。それと同時に第八条で「この協定のいかなる規定も……(日ソ間の)相互の関係における諸問題についても、いずれの政府の立場又は見解を害するものとみなしてはならない」と規定することにより、この協定が、現に日ソ両国間の多年の懸案となっている北方領土問題に関するわが国の立場に何ら影響を与えるものではないことを明確に留保しています。

 したがってこの協定の締結によって、北方領土はわが国固有の領土であり、ソ連の北方四島占拠は法的根拠を何ら有していないという意味で不法であるという政府の従来の見解は全く影響を受けることはありませんでした。1977年5月2日、漁業水域に関する暫定措置法により我が国も二〇〇海里水域を設定しましたが、これに伴い、我が国二〇〇海里水域内で操業するソ連漁船の手続と条件を定めるいわゆる「ソ日」漁業暫定協定の締結交渉が6月下旬から東京で始まりました。

 約一ヵ月にわたる交渉の結果、8月4日に協定が署名されましたが、この協定は、北方四島周辺水域にも二○〇海里水域を設定した我が国の漁業水域に関する暫定措置法を基礎として結ばれており、北方領土に関するわが国の基本的立場はこの協定によっても全く損われておりません。

 これら日ソ双方の地先沖合に関する漁業協定は、1984年、ソ連との日ソ地先沖合漁業協定に一本化されましたが、この協定においても、その前身となった二協定における我が国の北方領土に対する立場はそのまま維持されました。このように長期にわたった日ソ漁業交渉を通じて、北方領土問題が脚光を沿びることとなった結果、北方領土返還を要求する日本国民の総意が改めて確認されました。ソ連の強い圧力に抗しつつ、北方領土は我が国固有の領土であるという我が国の従来からの立場がこの協定によっても何ら影響を受けない形で交渉を妥結しえたのは、なによりも全国民的な力強い支持があったからです。

( 5 ) 園田外相の訪ソ

 以上のように北方領土問題をめぐって大きく揺れた漁業交渉を通じて明確にされた国民世論の高まりの中で、園田外相は1978年1月、ソ連を訪れ、日ソ外相間協議を行いました。この協議で園田外相は、戦後未解決の問題である領土問題を解決して平和条約を締結することが、日ソ間の友好関係を真に安定した基礎の上で発展させていくために不可欠であるという我が国の基本的立場を繰り返し説明しました。これに対しグロムイコ外相は、ソ連側も平和条約の締結を希望しているが、平和条約を締結する基礎が日本側と異なり、日本側の要求している領土の主張を平和条約の基礎とするわけにはいかないと述べました。そして、平和条約締結交渉と並行して善隣協力条約についても交渉を進めたいとして、その条約草案を日本側に渡しました。園田外相は、領土問題を解決して平和条約を締結することが先決であり、善隣協力条約というものを平和条約に先立って話し合う用意は全くないと明確に述べ、善隣協力条約草案については、検討はしないが儀礼上、一応預っておくとソ連側に明確に伝えた上でこれを受け取りました。さらに園田外相は、日本側が準備した、四島一括返還が織り込 まれた平和条約の骨子を書いた文書をソ連側に手交しましたが、これに対しグロムイコ外相は、ソ連の立場は既に述べたとおりであり、園田外相と同様の理解の下で一応預ると述べて受け取りました。このようにこの会談においても領土問題に関する日ソ両国間の見解には依然隔たりがあり、また、共同コミュニケについてはソ連側が1973年田中総理訪ソの際の日ソ共同声明に述べられた合意(「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結する」)を明記することを拒否したため、結局作成されませんでした。これ以降、外相間定期協議は、「年1回開催する」との合意が存在し、かつソ連外相が訪日する番であったにも拘らず、86年1月まで中断されることとなります。

( 6 ) 北方領土におけるソ連の軍備強化

 ソ連が世界的な軍備増強の一環として極東・太平洋方面においても軍備強化を進めてきたことは従来より指摘されていましたが、1979年1月末、防衛庁は、1978年夏頃より、国後、択捉の両島に新たな軍事力の配備及び施設の構築がソ連により進められている事実を発表しました。

 このような事実は日本政府および国民にとり到底許容することの出来ないものであったので、2月5日、政府はソ連政府に対し、北方四島の速やかな返還を求める我が方の立場を重ねて確認しつつ、このような軍事的措置に抗議し、速やかに撤回を求める旨の申入れを行いました。

 この北方領土における軍備強化については、日本政府はあらゆる機会をとらえて、その撤回をソ連側に要求してきましたが、1982年末には従来は飛来して来なかった新たなソ連軍用機が択捉島に飛来する等、北方領土におけるソ連の軍備強化が継続されたことを受け、1983年1月にも政府はソ連側に抗議しました。

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