北方領土に関する各種資料
外務省 われらの北方領土 2010年版より抜粋
第二次大戦までの時期

 我が国はロシアより早く、北方四島、樺太及び千島列島の存在を知り、既に一六四四年には、「クナシリ(国後)」島、「エトホロ(択捉)」島等の地名を明記した地図(正保御国絵図)が編纂され、幾多の日本人がこの地域に渡航していました。我が国の松前藩は、十七世紀初頭から北方四島を自藩領と認識し、徐々に統治を確立していきました。

 これに対しロシアの勢力は、十八世紀初めにカムチャッカ半島を支配した後にようやく千島列島の北部に現れて我が国と接触するようになりました。一七九二年にはロシアの使節ラクスマンが北海道の根室に来訪して我が国との通商を求めています。

 このようなロシア勢力の進出に伴い、当時の幕府は、「鎖国の祖法」を理由に通商を拒否しつつ、近藤重蔵、間宮林蔵らを国後島、択捉島や樺太にそれぞれ派遣して実地調査を行い、これらの地域の防備に努めるとともに、択捉島およびそれより南の島々に番所を置いて外国人の侵入を防ぎ、これらの島々を統治しました。

 他方、ロシアも千島列島に遠征隊を送って調査を行ったり、露米会社などを通じて進出をはかりました。しかし、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。これは前述のように、幕府が択捉島およびそれより南の島々に番所を置いて外国人の侵入を防ぎ、現実にこれらを統治していたからです。

 なお、この点に関しては、ソ連ないしロシア側の資料の中でも、クリル列島の南端の植民地化のために十分な力を持っていないロシアが、すでに十九世紀初頭において、ウルップ島と択捉島を分けるフリーズ海峡をもってクリル地域における勢力圏を日本との間で分割することを念頭に置いていたことが明らかになっています。

 1855年2月7日、我が国は、米、英に続きロシアとの間に通好条約を結んで国家間の交流を開始しましたが、この条約は、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものでした。当時のロシア皇帝ニコライ一世自身も、条約締結以前から両国の国境を「択捉島とウルップ島の間」と考えていましたし、ロシア側の全権代表プチャーチン提督も条約に調印するに際し、「将来の紛争を避けるため細心の調査を行った結果、択捉島は日本国の領土であることが証明された」と述べています。

 日露両国は、このように全く平和的・友好的な形で合意を達成したのです。また同条約においては樺太島については、日本国とロシア国との間には国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められました。また、1875年には、我が国は千島列島をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄することに決定し、ロシアと樺太千島交換条約を結びました。この条約の第二条には、日本がロシアから譲り受ける島としてシュムシュ島からウルップ島までの十八の島々の名を列挙しています。こうした事実は、択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の北方四島が、一度も他国の領土になったことがない日本固有の領土であることをはっきりと示すもので、当時既にこれらの島々が、ロシアから譲り受けた千島列島(The Kurile Islands)とは明確に区別されていたことを物語っています。(なお、樺太については、その後我が国は、1905年日露戦争を終結するために結ばれたポーツマス条約によって、樺太の北緯五〇度より南の部分をロシアから譲り受けました。)

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