北方領土に関する各種資料
外務省 われらの北方領土 2010年版より抜粋
サンフランシスコ平和条約

 サンフランシスコ平和条約は、千島列島と南樺太について次のとおり規定しています。「日本国は、千島列島並びに日本国が1905年9月5日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」(第二条(c)項) この規定によって、日本は千島列島と南樺太を放棄しましたが、平和条約はこれらの地域が最終的にどこに帰属するかについては、なにも定めていません。

 ソ連は、これらの地域を一方的に自分の領土に入れ、今日まで事実上これらの地域に施政を及ぼしてきましたが、国際法上これらの地域がどこに帰属するかはいまなお未定であるわけです。また、平和条約は「千島列島」(The Kurile islands)の地理的な範囲をはっきりと定めていませんが、この点については、平和条約を結んだ際の次の諸事情が考慮されるべきものと考えます。すなわち、平和条約の草案が検討されていた段階で、日本政府は、歯舞群島、色丹島は北海道の一部であり、また、国後、択捉両島は千島列島とはちがって一度も外国の領土となったことがないこと、およびこれら諸島は動植物分布など地理的条件が千島列島とはちがうことを示す資料を米国政府に提出しました。

 サンフランシスコ会議で、日本の吉田全権は歯舞群島、色丹島が日本本土の一部を構成するものであることはもちろん、国後、択捉両島が昔から日本の領土だった事実について会議参加者の注意を喚起しています。この会議で、米国のダレス全権は、ポツダム降伏条件が日本および連合国全体を拘束する唯一の講和条約であること、したがっていくつかの連合国の間には私的な了解があったが、日本も他の連合国もこれらの了解には拘束されないことを明らかにしました。

 したがって、平和条約そのものは千島列島の地理的範囲をはっきりと定めていませんが、我が国の立場は十分明らかにされています。平和条約にいう「千島列島」には、日本固有の領土である歯舞群島、色丹島および国後、択捉両島は含まれないとの解釈は、我が国を拘束するいかなる国際合意とも矛盾しません。

 日本政府も国会審議などで、国後、択捉両島は日本固有の領土であって、サンフランシスコ平和条約で放棄した「千島列島」には含まれないという見解を繰り返し明らかにしてきています。その後、米国政府は、1956年9月7日の国務省覚書で、「択捉、国後両島は(北海道の一部たる歯舞群島及び色丹島とともに)常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本国の主権下にあるものとして認められなければならないものである」という公式見解を明らかにして、わが国の立場を支持しています。

 さらに、1954年、北海道上空で米国の飛行機が撃墜されるという事件が起こりましたが、同事件に対して米国政府がソ連政府にあてた1957年5月23日の書簡でも、サンフランシスコ条約、ヤルタ協定などの「千島列島」という言葉が、「従来常に日本本土の一部であったものであり、従って正義上日本の主権下にあるものと認められるべき歯舞群島、色丹島又は国後島、択捉島を含んでもいなければ含む様に意図されもしなかったということを繰り返し言明する。」と述べられています。これら米国政府の文書は、サンフランシスコ平和条約の起草国としての米国の立場から、これまで述べた日本政府の解釈の正しさを確認したものです。

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