|
1700年代の後半になると幕府はみずから北方の島々の経営に本格的に取り組むようになり、国後島、択捉島を中心に最上徳内(もがみとくない)、近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)、高田屋嘉兵衛(たかだやかへい)のような勇敢な日本人が活躍しました。このように北方領土は、日本の支配下にあった我が国古来からの領土であることは一点の疑いもない事実です。 |
1855年日魯通好条約(下田条約) |
1855年、日本とロシアとの間で全く平和的、友好的な形で締結された日魯通好条約(下田条約)は、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認しました。それ以降も、北方四島が外国の領土となったことはありません。
|
1875年樺太・千島交換条約 |
1875年に締結された樺太・千島交換条約は、千島列島を日本領、樺太をロシア領としました。同条約は、千島列島として18の島の名前を全て列挙していますが、北方四島はその中に含まれていません。これは、元々日本領である北方四島が当時すでに千島列島とは明確に区別されていたことを物語っています。 |
1945年四島の占領 |
第二次大戦末期の1945年、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾して終戦となった後の8月28日から9月5日までの間に北方四島の全てを占領しました。
当時四島にはロシア人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千が住んでいましたが、ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に編入し、1949年までに全ての日本人を強制退去させました。
|
サンフランシスコ平和条約 |
1951年のサンフランシスコ平和条約で、日本は千島列島を放棄しましたが、放棄した千島列島の中に我が国固有の領土である北方四島は含まれていません。なお、平和条約の起草国である米国は、北方四島は常に固有の日本領土の一部をなしてきたものであり、かつ、正当に日本の主権下にあるものとして認められなければならない旨の公式見解を明らかにして、日本の立場を一貫して支持しています。
|
1956年日ソ共同宣言 |
日ソ両国の議会により批准された1956年の日ソ共同宣言によって両国の外交関係は回復されましたが、交渉の過程において領土問題について両国の立場は一致せず、共同宣言第9項で、両国は平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意し、ソ連は歯舞・色丹両島を平和条約締結後に日本に引き渡す、国後島と択捉島の問題については、国交を回復した後に続けられる平和条約を結ぶための交渉の中で話し合っていくことで合意しました。
|
1993年東京宣言 |
1993年の東京宣言は、北方四島の島名を列挙して、領土問題をその帰属に関する問題であると位置付けた上で、領土問題を歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を締結するとの明確な交渉指針を示しました。
|
2001年イルクーツク声明 |
2001年のイルクーツク声明は、56年の日ソ共同宣言が交渉プロセスの出発点を設定した基本的な法的文書であることを確認し、その上で、93年の東京宣言に基づき、北方四島の帰属の問題を解決することにより、平和条約を締結すべきことを再確認しました。
現在、ロシア側も、両国間に国際的に認められた国境が存在しないことを認めています。日ロ両国は、これまでに達成された諸合意を基礎として、四島全ての帰属の問題について、双方に受入可能な解決策を見出すべく、精力的な交渉を継続しています。
|
日本の基本的立場 |
北方領土は、ロシアによる不法占拠が続いている日本固有の領土です。なお、この点については米国政府も一貫して日本の立場を支持しています。
日本固有の領土である北方領土に対するロシアによる不法占拠が続いている状況の中で、第三国の民間人が当該地域で経済活動を行うことを含め、北方領土においてロシア側の管轄権に服すること、または北方領土に対するロシアの管轄権を前提とした行為を行うこと等は、北方四島に対するロシアの領有権を認めることにつながり得るものであって、容認できないというのが日本の基本的立場です。
したがって、第三国国民がロシアの査証を取得した上で北方四島へ入域する、または第三国企業が北方領土において経済活動を行っているとの情報に接した場合、日本としては従来より然るべく事実関係を確認の上、申し入れを行ってきています。
また、日本国政府は、広く日本国民に対しても、1989年(平成元年)の閣議了解で、北方領土問題の解決までの間、ロシアの出入国手続きに従うことをはじめとしてロシアの不法占拠の下で北方領土に入域することを行わないよう要請しています。 |