北方領土に関する各種資料
外務省 われらの北方領土 2010年版より抜粋
ゴルバチョフ大統領の登場とソ連邦の崩壊

( 1 ) 外相間定期協議と平和条約締結交渉の再開

 1985年3月の就任以来、ゴルバチョフ書記長は、INF全廃条約の締結、アフガニスタン撤兵、通常兵力の一方的削減など一連の「新思考外交」を展開する中で、アジア・太平洋地域に関しても、1986年7月のウラジオストク演説、1988年9月のクラスノヤルスク演説等において、同地域に対する関心を表明し、対日関係についても、その改善の必要性に対する認識を述べました。

 このような動きの中で、8年間中断されていた外相間定期協議が1986年1月に再開され、また、議員交流の再開、わが国要人の訪ソ等、日ソ間の政治対話は次第に拡大傾向を示してきました。シェヴァルナッゼ外相がソ連外相としては十年ぶりに我が国を公式訪問し、開催された第6回日ソ外相間定期協議では、両国外相間で3時間以上にわたり領土問題を含む平和条約交渉が行われ、さらに、その継続についても合意をみました。このように、ソ連側は北方領土問題につき話し合いのテーブルにつくことすら拒否するという理不尽な態度を改めましたが、北方領土問題についての厳しい立場そのものには変化はありませんでした。

 同年5月には安倍外相が訪ソし、モスクワにおいて第七回外相間定期協議が開催されました。

 この訪ソでは、領土問題を含む平和条約交渉が継続されたほか、ゴルバチョフ書記長との間で2時間にわたる会談が行われました。安倍外相から北方領土問題を解決し平和条約を締結することが日ソ関係の将来にとって最も重要である旨主張したのに対し、ゴルバチョフ書記長は、「あなた方は取り上げてはいけない問題を取り上げようとしている。すなわちこの問題は国境不可侵の問題に係るものである。これは第二次世界大戦の結果として既に合法性を与えられている問題である」と述べ、1月の際と同様ソ連側の厳しい立場に変化は見られませんでした。

 なお、1976年より中断されていた北方墓参については、1986年5月のモスクワでの日ソ外相間定期協議の際の話合いを受けて、同年7月2日、我が国の北方領土問題に関する立場を害さない形での合意が日ソ間で成立しました。その結果、北方墓参は、同年8月、11年振りに再開され、89年8月には19年振りに国後島への墓参が、また90年8月には1964年の北方墓参開始以来初めて択捉島への墓参が実施されました。

( 2 ) 平和条約締結交渉の継続と平和条約作業グループの設置

 その後、ココム問題、ソ連のスパイ事件などがあり、日ソ関係には冷却化の兆しがみられましたが、1988年に入り、再び対話の拡大がみられるようになりました。しかし、7月に中曾根元総理が訪ソした際、ゴルバチョフ書記長は、「戦後の現実から出発しなければならない。1956年にはソ連はその当時の現実を勘案し、善意によって二島を返還しようとの立場を取った。しかし、日本は四島の返還を要求した。」と述べました。

 88年12月にはシェヴァルナッゼ外相が訪日し、第8回日ソ外相間定期協議が行われました。この定期協議において外務次官レベルの平和条約作業グループが常設されました。(以後この平和条約作業グループの会合はソ連時代に8回、ロシアとの間で7回開催されています。その結果、北方領土問題をめぐる法的・歴史的議論は双方の間で既に尽くされ、残るはロシア指導部の政治的決断のみとなっています。)

 89年5月には宇野外相が訪ソし、第9回日ソ外相間定期協議が行われました。その中で日本側より、領土問題を解決して平和条約を締結することを最重要課題として日ソ関係全体を均衡のとれた形で拡大させるという「拡大均衡」の考え方を提示し、ソ連側の基本的理解を得ました。しかし、北方領土問題に関するソ連の立場は依然として固いものであり、シェヴァルナッゼ外相は「南の部分を含む『クリル列島』のソ連への帰属は、国際法上、歴史上、地理上確実なものである」との立場を繰り返しましたが、日米安全保障条約に対する評価については、「日米安全保障条約が存続している状況下であっても、ソ連側は、日ソ平和条約交渉を開始し、平和条約を締結することは可能である」との考え方を初めて表明しました。

 89年9月の国連総会の際での外相会談において、ソ連側より1991年のゴルバチョフ議長の訪日の意向が表明されました。90年9月にはシェヴァルナッゼ外相が訪日し、第10回日ソ外相間定期協議が行われました。

 領土問題については具体的な進展は見られませんでしたが、ゴルバチョフ大統領の訪日に関して、ソ連側より91年4月中旬の訪日の意向が表明されました。

 91年1月には、中山外相が訪ソし、保守派の台頭を警告して辞任したシェヴァルナッゼ外相に代わって就任したベススメルトヌィフ外相と第11回日ソ外相間定期協議が行われました。同会談において、ベススメルトヌィフ外相は、「色々な要因があってこの作業は非常に難しい。……この問題というのは、一回の最高首脳の会談で決まるような性質のものではない。」ということを強調しました。

 また、ゴルバチョフ大統領は、「この問題は、第二次大戦の結果として出てきた問題との側面を有している。……日ソの問題はどこから見ても非常に複雑であり、現実的に考えていく必要がある。いますぐに解決策が出てくるという性格のものではない。」と述べるに止まりました。

( 3 ) 日ソ首脳会談、ソ連邦崩壊とロシア連邦の登場

 その後3月にはベススメルトヌィフ外相が訪日して第12回日ソ外相間定期協議が行われ、4月のゴルバチョフ大統領訪日による日ソ首脳会談の開催に至りました。

 この日ソ首脳会談においても、残念ながら北方領土問題解決の突破口は開けませんでしたが、合計6回、12時間以上にわたる徹底した議論の結果署名された日ソ共同声明においては、「歯舞群島、色丹島、国後島および択捉島の帰属についての双方の立場を考慮しつつ領土画定の問題を含む」両国間の平和条約の話合いが行われたこと、及び「平和条約が、領土問題の解決を含む最終的な戦後処理の文書であるべきこと」が確認されました。これは、言い換えれば、歯舞群島、色丹島、国後島および択捉島の四島が平和条約において解決されるべき領土問題の対象であることが、初めて文書の形で疑義の余地なく明確に確認されたことを意味します。さらに、この共同声明においては、「平和条約の準備を完了させるための作業を加速することが第一義的に重要であること」が強調されており、領土問題の解決を含む平和条約の締結が持つ重要性が両国の最高首脳レベルで確認されました。

 なお、この首脳会談においては、合計15に及ぶ実務関係の文書が作成されました。91年4月の共同声明を出発点として、北方領土問題解決へ向けた新たな努力が開始されましたが、同年夏以降ソ連の国内情勢は急激に流動化し、8月のクーデター未遂と共産党支配の終焉を経て、ついに12月、69年間続いたソ連邦は名実ともに崩壊しました。

 しかし、新たに登場したロシア連邦はソ連邦と継続性を有する同一の国家であり、また、北方領土の地理的所在にかんがみ、以後の領土返還交渉の相手は当然ロシア連邦となりました。この間、新たな国家建設に乗り出したロシア側より、北方領土問題について従来より一歩進んだアプローチが示唆されるようになりました。

 91年9月、ロシア共和国よりハズブラートフ最高会議議長代行が、エリツィン大統領から海部総理にあてた親書を携え訪日しました。ハズブラートフ議長代行よりは、第二次世界大戦における戦勝国、敗戦国の区別を放棄すること、領土問題を「法と正義」に基づいて解決すること、問題の解決を先延ばしにしないこと等の考え方が表明されました。

 91年10月には中山外相がモスクワを訪問し、エリツィン大統領に対し、「法と正義」に基づき一日も早く北方領土問題を解決して平和条約を締結することの必要性を改めて表明しました。この間、ロシア国内において民族主義的立場から北方領土の日本への返還に反対する勢力が活発化し、また北方領土に在居住する住民の間で将来への不安が高まる等の新たな動きが出てきました。

 これに対しエリツィン大統領は、11月のロシア国民への手紙において、「法と正義」に基づく問題の解決と、日本との関係における最終的な戦後処理の達成の必要性を指摘しつつ、北方領土住民の懸念及びロシアの世論に配慮していく旨を述べました。

 92年1月、宮澤総理はニューヨークにおいてエリツィン大統領と会談し、エリツィン大統領は9月に訪日する意向である旨を表明しました。これを受けて9月までの間に平和条約作業グループが2回(2月モスクワ、7月東京)、外相間協議が3回(3月東京、5月モスクワ、9月モスクワ)開催される等、日露両国間で精力的な訪日準備作業が継続されました。

 交渉にあたり、我が国は、ロシア側が91年後半以降示してきた新たなアプローチを踏まえ、北方四島に居住するロシア国民の人権、利益及び希望は返還後も十分に尊重していくこと、また、四島の日本の主権が確認されれば、実際の返還の時期、態様及び条件については柔軟に対応する考えであることを明示しつつ、柔軟かつ理性的な対応を取りました。

 しかし、この間ロシア国内における北方領土問題をめぐる議論は更に尖鋭化し、次第に不安定の度を強めつつあったロシアの内政状況も影響して、領土問題、ひいてはロシア政府の対日姿勢そのものが政争の対象とされるようになりました。

 こうした状況にあって、9月9日、エリツィン大統領は宮澤総理に対し電話にて、ロシア国内の事情により訪日を延期せざるを得ない旨を伝えてきました。訪日開始の4日前に至って、このような形で延期が決定されたことは極めて遺憾でしたが、我が国としては冷静に事態に対処し、その後のロシア国内の情勢を見極めつつ一連の実務関係を進めるとともに、外相レベルで2回(9月ニューヨーク、93年1月パリ)、外務次官レベルで1回(12月モスクワ)の協議を経て、エリツィン大統領の訪日準備作業の再開が合意され、訪日準備が進められました。

 なお、92年9月には日露両国外務省の協力により、「日露間領土問題の歴史に関する共同作成資料集」が完成しました。北方領土問題に関する客観的な事実を集めたこの資料集は、作成過程における日露双方の緊密な協力とともに、過去10回にわたる平和条約作業グループがもたらした大きな成果として意義のあるものです。

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