北方領土に関する各種資料
外務省 われらの北方領土 2010年版より抜粋
第二次大戦終結までの時期

 1941年8月、ルーズベルト、チャーチルの米英両首脳は、第二次大戦における連合国側の政策の指導原則ともいうべき大西洋憲章に署名しました。この憲章の中で、米英両国は戦争によって領土の拡張は求めない方針を明らかにしました。これは、第二次大戦における連合国側の政策の中心的原則となり、また終戦後敗戦国を処理する際の方針ともなりました。

 ソ連は同年9月24日の政府宣言によりこの憲章への参加を表明しました。1943年11月27日のカイロ宣言は、この憲章の方針を確認し、同時に日本について、日本は第一次大戦により得た太平洋の諸島、満州、台湾および澎湖島、朝鮮、それに、「暴力および貪欲により日本国が略取した」他のすべての地域から追い出されなければならないと宣言しました。

 カイロ宣言は、南樺太、千島列島についてははっきり述べていません。しかし、千島列島は、前述のとおり、樺太千島交換条約によって平和裡にわが国が譲り受けたもので、日本によって暴力および貪欲により略取された地域でないことはいうまでもありません。ましてや、日本固有の領土である歯舞群島、色丹島および国後、択捉両島が、カイロ宣言に述べられた「日本国の略取したる地域」にあたらないことはいうまでもないことです。

 (1945年2月11日、米国のルーズベルト大統領、英国のチャーチル首相、ソ連のスターリン元帥により署名されたヤルタ協定には、樺太の南部およびこれに隣接するすべての島はソ連に「返還する」こと、および千島列島はソ連に「引き渡す」ことが書かれています。ソ連は、従来から北方領土問題について、しばしばこのヤルタ協定を引き合いにだしてきました。しかしながら、第一に、ヤルタ協定は、当時の連合国の首脳者の間で戦後の処理方針を述べたにすぎないものであり、関係連合国間においても領土問題の最終的処理につき決定したものと考えることはできません。このことは、米国政府も、1956年9月7日のこの問題に関する同政府の公式見解の中で、ヤルタ協定はただそれを署名した国の首脳が共通の目標を述べたものにすぎないと認め、その当事国によるいかなる最終的決定をなすものでなく、また領土を移転するようないかなる法律的な効果を持つものでないと認める、と述べていることからも明らかです。

 第二に、そもそもわが国はヤルタ協定には参加していないのですから、いかなる意味でも、この協定に拘束されることはなく、したがって少なくとも日本との関係では、ソ連はヤルタ協定を引き合いにだせるものではありません。)

 1945年7月26日のポツダム宣言は、カイロ宣言の条項は履行されなければならず、また、日本国の主権は本州、北海道、九州、及び四国並びにわれらの決定する諸小島に限られなければならない(第八項)と述べています。戦争の結果としての領土の最終的処理は平和条約によって初めて行われるものであり、その意味では、ポツダム宣言のこの規定は、平和条約と別に、それだけで領土処理について法的効果を持ちうるものではありません。

 しかも、同宣言は、「われらの決定する諸小島」と述べているにすぎず、この内容を具体的にはっきりさせたものではありません。また、これがカイロ宣言の領土不拡大の原則に反するような方針を述べたものとも解釈できません。

 逆に、日本は、ポツダム宣言で明らかなように、この宣言がカイロ宣言の原則を引き継いでいると考えて、降伏の際、ポツダム宣言を受諾したのであり、また、ソ連もポツダム宣言に参加した結果としてカイロ宣言の領土不拡大の原則を認めたものと解されます。

 しかしながら、ソ連は、1945年8月9日、当時まだ有効であった日ソ中立条約を無視して対日参戦しました。そして、8月14日に日本がポツダム宣言を受諾し降伏の意図を明確に表明した後の8月18日、カムチャッカ半島から第二極東軍が進撃して千島列島の占領を開始し、31日までに千島列島の南端であるウルップ島の占領を完了しました。

 これとは別に、樺太から進撃した第一極東軍は、当初北海道の北半分(釧路・留萌ライン以北)及び北方四島の占領を任務としていましたが、前者につき米国の強い反対にあったためこれを断念するとともに、米軍の不在が確認された北方四島に兵力を集中し、8月28日から9月5日までの間に択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島の全てを占領してしまいました。(ちなみに、これら四島占領の際、日本軍は抵抗せず、占領は完全に無血で行われました。)

 このことは、当時ソ連軍に同行させられていた日本軍の作戦参謀の証言及び最近公開された旧ソ連海軍の資料からも明らかです。当時、ソ連自らも択捉島以南の四島はウルップ島以北の島々とは全く異なったものであると認識しており、択捉島以南の四島の占領は、計画のみで中止された北海道北部と同様、日本の固有の領土であることを承知の上で行われたとの事実がここに示されています。

 (なお、1946年1月29日付の「若干の外廓地域の日本からの政治上および行政上の分離に関する総司令部覚書(SCAPIN第六七七号)」は、この指令の目的上、日本は四大島および約千の近接諸島を含み、千島列島、歯舞群島および色丹島を含まないものと定義される)(第三項)と述べていますが、この指令は、占領行政上の措置にすぎず、領土問題の最終的決定とは関係がないことは明らかです。現に同覚書は、「本指令のいかなる規定もポツダム宣言第八項に述べられた諸小島の最終的決定に関する連合国の政策の指標と解されてはならない」(第六項)と述べ、このことを明確に確認しています。)

ページトップへページトップへ

Copyright(c), 北方領土返還要求運動神奈川県民会議 All Rights Reserved. since march. 31. 2005
事務局: 〒231-8588 神奈川県横浜市中区日本大通1
神奈川県県民局総務室内 電話:045-210-3618