北方領土に関する各種資料
外務省 われらの北方領土 2010年版より抜粋
北方四島渡航等に関する枠組み

 ソ連は、戦後一貫して、自国民の出入りさえ制限するなど、北方四島を厳重な管理下に置いてきましたが、80年代より、北方領土の不法占拠による施政の下で四島への日本国民の入域を積極的に認める政策を取り始め、その結果、1989年には一部のわが国国民がソ連当局の査証発給を受けて北方四島に入域する事例がみられました。

 そこで、政府としては、広く国民に対し、同年9月19日の閣議了解、官房長官談話で、ソ連の不法占拠下にある北方領土への入域の問題点を指摘しその理解を深め、北方領土問題の解決までの間、このような北方領土への入域を行わないよう要請しました。その後、日露政府間で四島への渡航等に関する枠組みが設定されていますが、これらの枠組みの下での四島への渡航は、前述の要請の特例となるものです。

 なお、2009年7月に北方領土北方領土問題等解決促進特別措置法が改正され、四島交流、北方墓参、自由訪問が法律上明確に定義されるとともに、北方領土問題が解決されるまでの間、政府がこれら事業の積極的な推進に努めること等が規定されました。

( 1 ) 四島交流

 1991年10月14日、日ソ両外相間の往復書簡により、領土問題解決までの間、相互理解の増進を図り、領土問題の解決に寄与することを目的として、日本国民と継続的かつ現に諸島(歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島)に居住するソ連邦国民との間の旅券・査証なしによる相互訪問の枠組みが作られました。政府は、この枠組みの目的を踏まえて、同年10月29日の閣議了解により、この枠組みの下での北方四島への訪問が、北方四島元居住者、返還要求運動関係者及び報道関係者により実施されるべきこと、この枠組み及び墓参以外の入域は引き続き自粛されるべきこと等を明らかにし、改めて国民の理解と協力を要請しました。

 1992年4月から、この枠組みに従った相互訪問が北方四島との間で開始され、その結果、旧ソ連時代からの誤った宣伝や遠隔地であることによる情報の不足等から、かつては北方領土問題の本質ないしは日本及び日本人につき歪んだ認識を有していた北方四島在住ロシア人との間で初めて率直な対話が実現し、これらロシア人住民の不安ないし誤解は急速に解消されていきました。2010年からは、新たに住民交流会が行われるようになり、行事への参加や意見交換を通じて相互理解を深められるよう、様々な工夫をしたプログラムが行われています。

 1998年4月、政府はこの訪問による相互理解を更に進め、領土問題の早期解決に役立てるため、4月17日付けの閣議了解により、訪問の対象者として「この訪問の目的に資する活動を行う専門家」を加えることとしました。

 こうした専門家の交流として、2007年2月に署名された日露隣接地域における防災分野に関する協力プログラムに基づいて、地震・火山学の専門家が相互訪問し、地質の観察、観測施設の視察、専門家間の交流を行っています。また、防災分野における協力に続き、日露の隣接地域で生態系の保全及び持続可能な利用の分野でも協力を進めていくこととしており、四島交流の枠組みによる専門家の交流が行われているほか、2009年5月のプーチン首相訪日の際に、具体的な協力の方向性を定めた政府間の協力プログラムが署名されました。同プログラムに基づき今後とも具体的な協力が進むことが期待されます。

 2010年末までに四島交流の枠組みにより相互に訪問した数は、93名の国会議員を含む延べ1万7,298名となっています。

 政府は、四島交流は、我が国国民と北方四島住民との間の相互理解の増進を着実に図ってきており、また、後述する自由訪問及び墓参は人道的観点から重要な役割を果たしており、引き続き重要な意義を有しているとの認識に立ち、これらの事業を一層充実させることを目的として、2007年12月18日付けで「四島交流等の実施及び後継船舶の確保に関する方針」について関係閣僚申合せを行いました。政府は、この申合せに従って、これらの事業を安定的かつ安全に継続するために必要な後継船舶の確保に向けて、業者の選定作業を進め、2009年9月30日に船舶の所有及び運航管理を行う請負業者を決定しました。現在、2012年5月からの供用に向けて準備が進められています。

 なお、四島交流をめぐっては、2009年1月、北方四島住民に対する人道支援物資供与事業に実施の際にいわゆる「出入国カード」の扱いをめぐる問題が発生しましたが、同年2月にサハリンで行われた日露首脳会談において両首脳が解決に向けて事務的に建設的に作業させることで一致したことを受け、日露双方の関係当局間で協議が行われました。その結果、同年5月、双方の法的立場を害さないことを双方が確認し、本問題は技術的に解決されました。

( 2 ) 四島住民に対する人道支援

 1991年末のソ連崩壊後、ロシアは市場経済、民主主義体制への移行を目指しましたが、ロシアの政治、経済、社会は大きな混乱に見舞われ、もともと厳しい生活環境にあった北方四島に住むロシア人住民の生活は更に困難を増すこととなりました。

 このため、日本政府は92年、北方四島の住民に対する支援物資として、砂糖やバターなどの食料品を供与し、93年からは支援委員会を通じ、四島住民に対する支援物資を供与してきました。94年10月に発生した北海道東方沖地震は、北方四島に甚大な被害をもたらしました。日本政府は、我が国国民がこの大規模な災害に対する緊急人道支援に関連する活動に従事することを目的として、北方四島へ入域するための枠組みを設定しました(「四島交流」と同様の方式)。この枠組みを利用し、これまでにプレハブ式の仮設診療所、自航式艀(はしけ)の供与、古釜布(国後島)桟橋補修などを行いました。

 また、97年5月の日露外相会談において、この枠組みを、より一般的な緊急人道支援に拡大していくことで基本的に一致し、その結果、98年9月、従来の枠組みを94年の地震に関連するものに限らない一般的な緊急人道支援に拡大することとなりました。99年には国後島における緊急避難所兼宿泊施設「日本人とロシア人の友好の家」の設置や色丹島、択捉島におけるディーゼル発電施設の設置、また、2000年に国後島におけるディーゼル発電施設の設置や2回の医療関係者の研修等を行ったほか、患者の受入れ等を行ってきました。

 しかし、2002年に入り、支援委員会の在り方について様々な問題点が指摘されたことを受けて、支援の枠組みについて大幅な見直しを行った結果、支援委員会を廃止し、2003年度以降、北方四島住民支援については、人道支援の本旨に立ち返り、施設建設は実施せず、災害時の緊急支援、現地の必要に応じた人道支援物資の供与、患者の受入れといった、四島住民にとって真に人道的に必要な支援を実施していくこととなりました。

 この結果、2003年から2010年までの間に、112名の患者(択捉島46名、国後島32名、色丹島34名)を受け入れたほか、2003年度から2007年度までの間に、毎年度1回、人道支援物資の供与を実施しました。また、2006年から、四島交流にて来訪する四島住民に対する健康診断を、さらに2008年度から、北方四島の医師・看護師等の研修を実施しています。また、2010年度から、患者受入事業や医師・看護師等研修事業をより効果的に実施していくとの観点から、四島に医療専門家を派遣し、各事業のフォローアップとして受入患者や医療関係者との面談を実施するとともに、四島の医療事情・ニーズの把握及び北海道本島の医療機関の受入体制等の調査を目的とする北方四島医療支援促進事業を実施しています。

 なお、人道支援物資の供与に関しては、2009年8月、ロシア側から、これまでの支援に対する謝意表明とともに北方四島の経済情勢の安定化を理由に今後の人道支援物資の供与は不要である旨の正式な通報があり、人道支援物資供与事業は廃止することとなりました。

( 3 ) 北方墓参

 元島民等による四島にある親族の墓地への訪問は、人道的観点から、旅券・査証なしの身分証明書による入域という特別の方式により、1964年から断続的に行われていました。しかし、76年にソ連側が旅券・査証の取得を要求したため、85年まで完全に中断しました。86年7月、旅券・査証なしで身分証明書により北方四島に入域する現行の枠組みが設定され、墓参が再開され、その後毎年実施されています。この結果、2010年末まで、延べ4,065名の遺族(同行者を含む)が墓参に参加しています。

 また、98年及び99年には、半世紀を経て状況の分からなくなっていた未確認墓地の実態を調査する調査団が合計4回にわたり四島へ派遣され、合計21か所の墓地が確認されました。

( 4 ) 自由訪問

 1998年11月、小渕総理の訪露の際に署名されたモスクワ宣言において、日露両首脳は、元島民及びその家族による北方領土への最大限に簡易化されたいわゆる自由訪問を実施することにつき原則的に合意しました。

 これを受け、99年9月2日、自由訪問の枠組みが設けられ、四島に居住していた日本国民等が、数次訪問のための身分証明書及び挿入紙等に基づき、旅券及び査証なしで四島を訪問する枠組みが設けられました。

 この年の9月11、12日、自由訪問第一陣の訪問団が志発島(歯舞群島)を訪問しました。同月2日に枠組みが設定された後、短期間で本訪問が実現したことは、日露関係において強い信頼関係が構築されてきたことを象徴するものと言えるでしょう。

 さらに2000年から2010年までに、毎年3~5回の自由訪問が実施され、2010年末までに、延べ2,085名が北方四島を訪問しました。

( 5 ) 北方四島周辺水域における日本漁船の操業

 90年代に入り、北海道根室管内周辺の水産資源状況が悪化し、また、93年からロシア側が北方四島周辺水域において取締りを強化したことにより、日本漁船の「拿捕」が増加しました。93年11月、94年8月及び96年8月にはロシア側の銃撃により負傷者が出たほか、94年10月には、漁船が沈没する事例もありました。

 日本政府は領土問題に関する我が国の立場を損なうことがあってはならないとの基本的立場の枠内で何ができるかにつき検討を重ね、94年11月のサスコベッツ第一副首相訪日の際に、この水域における操業秩序を確保する枠組みを設定するための交渉を開始することにロシア側との間で合意することができました。

 95年3月のモスクワにおける第一回交渉以後、計13回にわたる交渉の末、97年12月に実質合意に至り、98年2月には協定の署名が行われました。同年5月に協定が発効し、同年10月から我が国漁船の操業が開始されました。

 2006年8月、北方四島周辺水域において日本漁船がロシア警備艇から銃撃を受けて「拿捕」され、乗組員一名の生命が失われるという事件が発生しました。この事件は、北方領土問題に関する我が国の基本的立場からも、また、銃撃により人命が失われるという極めて由々しき事態が生じたことからも、我が国として容認し得ないものであり、事件発生直後から麻生外相を始めあらゆるレベルでロシア側に対し厳重に抗議するとともに、再発防止等を要求しました。なお、この事件以後も、依然として「拿捕」事件は発生しており、我が国は機会をとらえて抗議を行っています。

 領土問題が未解決である現状においては、北方四島周辺水域における漁業協力の既存の枠組みが、日本漁船の安全かつ安定的な操業を確保していく上で重要な役割を果たしています。政府としては、引き続きこれらの枠組みを堅持し、その下での操業を互恵的な形で維持し、発展させていくこと、また、日露双方の関係当局間の連携・協力を一層強化していくことが重要と考えています。

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