四島のかけ橋
第40号 北方領土返還要求運動神奈川県民会議
〒231-8588 神奈川県横浜市中区日本大通1 TEL045-210-1111
内線3621
平成19年1月1日 発行人:綾井 祐一
氷川丸 第22回県民大会を開催
横浜情報文化センター   
戦前は欧米航路、戦中は病院船、戦後は引揚船と活躍した氷川丸 会場は横浜情報文化センター

 北方領土返還要求運動神奈川県民会議(会長 中村省司神奈川県議会議長・加盟四十四団体)では、昨年11月9日(木)午後6時より、一昨年に引続き、横浜市中区日本大通11「横浜情報文化センター」情文ホールにて、第22回北方領土返還要求運動神奈川県民大会を開催した。同会場は、日本大通りの直前で、交通の便もよく、判りやすいせいか、参加者は、開会前早くも160名に達した。定刻六時、久保田政宏事務局次長(連合神奈川副事務局長)の司会による開会の言葉に続き、主催者側を代表して、中村会長の挨拶、来賓として、大木神奈川県副知事、独立行政法人・北方領土問題対策協会(北対協)宮本勝政事務局長の、当会議の活動に対する敬意と、今後益々の期待をかけた激励の祝辞があり、また、司会者による当会議の役員の紹介があった。綾井事務局長より、18年初頭から大会に至るまでの活動報告があり、その中で昭和62年10月より始まり、以後途絶えることなく20年も続いている「目で見る北方領土の旅」が報告されたことは印象的であった。また、同事務局長が「ビザなし交流」で、色丹、択捉島を訪問された際のビデオが上映され、その生々しい画面は、参加者に深い感銘を与えた。その後、評論家・吹浦忠正氏による記念講演があり、(2面参照)最後に、白石俊雄副会長(連合神奈川会長)の閉会の言葉があり、同8時閉会した

理事会  大会前、別室にて第2回理事会を開き、平成18年度(10月末までの実績と、来年3月までの予定)について理事の意見一致をみ、大会に臨んだ。

2月7日は 「北方領土の日」
北方領土返還要求運動神奈川県民大会 毎年、2月7日は、「北方領土の日」です。これは、北方領土問題に対する国民の関心と理解をさらに深め、全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図るために設けられたもので、昭和56年1月6日の閣議により決められています。2月7日は、1855年のこの日(旧歴では安政元年12月21日)伊豆の下田において日露通好条約が平和裡に調印された日です。この条約によって、日露両国の国境が定められ、択捉島など北方四島が日本の領土として初めて国際的にも明確にされました。この歴史的な意義と、平和的な交渉によって、領土の返還を求める運動の趣旨から、2月7日は、「北方領土の日」として最も適切な日とされました。本年も2月7日(水)、東京都千代田区の九段会館で、全国大会が催されることとなっています。この日、安倍内閣総理大臣の挨拶があり、壇上には自民党から共産党に至るまで与野党代表の国会議員が居並び、文字通り国民的集会と成っております。詳細につきましては、別途、事務局から加盟団体へご連絡しますので、ご参加をお願いいたします。

平成18年の主な活動状況報告
2月7日(火) 「平成18年度北方領土返還要求全国大会」
東京都千代田区「九段会館」参加 57名
4月14日(金) 「平成18年度都道府県推進委員全国会議」 東京都千代田区「都道府県会館」
5月26日(金) ~27日(土) 「第24回関東甲信越ブロック北方領土関係者会議」「第19回関東甲信越ブロック北方領土返還要求都・県民会議連
絡協議会」「第10回北方領土返還要求事務担当者ブロック会議」
新潟県南魚沼市「浦佐ホテルオカベ」
7月19日(月) 「平成18年度県民会議理事会・総会」 横浜市西区「もみじざかじょいぷらざ」出席者 20名、委任24名 計44名
7月29日(土) ~30日(日) 「第19回北方領土返還要求運動関東甲信越青少年交流会」 茨城県つくば市 参加 教諭1名 中学生3名 計4名
8月7日(月)~22日(火) 懸垂幕「北方の領土かえる日平和の日」 掲出場所「かながわ県民センター」
8月16日(水) 広報掲載 神奈川新聞「県民の窓」
8月17日(木) ~19日(土) 「北方領土問題教育指導者現地研修会」 県、横浜市、川崎市より各1名、計3名 根室市
10月4日(水)~6日(金) 「北方領土視察研修」(目で見る北方領土の旅) 北方四島交流センター、納沙布岬等 参加15名
10月27日(金) 「第23回都道府県民会議代表者全国会議」 和歌山市「ホテルグランヴィア和歌山」
11月9日(木) 「第22回北方領土返還要求運動神奈川県民大会」 横浜市中区「情報文化センター」
機関紙「四島(しま)のかけ橋」発行 38号、39号 各2,500部

灯  台
 大会で、綾井事務局長の「ビザなし交流のビデオを観ながら、ハッとした。それは、一行が色丹島の桟橋の場面にさしかかったところであった。桟橋と言っても、太い丸太を縦に削いて、横に並べ釘やロープで繋いただけのもので、乗るとグラグラする浮いている桟橋という代物で、(少しも変ってないな)と思ったが、画面が更に桟橋から、上陸地点に移った時、あれっと驚いた。ここから、話は今から13年前の平成5年(1993年)10月に、筆者が、国後、色丹を、「ビザなし交流」で訪ねた時のことに重なり合ってしまうのであった。あの時、艀から降りたった私達を、派手な民族衣装をまとった娘たちが、日本の文字で、「日本のみなさん、ようこそ」と書かれたアーチの下で、親愛の情をあらわすというケーキを、笑顔で私達に渡され、緊張感が一遍に、ふっ飛んだものだった。それがこのビデオでは、迎える島民の姿もなく、何か無関心という感じがした。この一場面だけで、あの親日感に満ち、私達が帰船する際は、村長をはじめ、大勢の人達が、名残りを惜しんで、去り行く私達に手を振り口笛を吹いて気持をあらわしていたが、あの人達は、もう居ないのか、時間が人を変えてしまったのか、思わず考えこんでしまった私である。(蓮見)

四島のかけ橋 平成19年1月1日  (2)
四島(しま)還れ!日本の声です叫びです   平成18年度入選標語 最優秀賞 東京都足立区 安棲繁美氏

「北方領土」は日・ロ双方の世論を高め前進させよう
講師 ふきうらただまさ  1941年生まれ。秋田県出身。早稲田大学大学院政治学研究科修了。評論家、日ロ関係に関する著書、論文、雑誌等への執筆多数。今年1月に創設される日本初のロシア研究専門シンクタンク「対外戦略研究所(仮称)」の理事長に就任予定。
吹浦 忠正  氏
「四島」の不法占拠
 昭和20年(1945年)9月5日、ソ連軍が北方領土の不法占拠を終了した日です。その日以来、今日まで不法占拠は続いて今日に至っております。皆さん、よく振返って下さい。1945年8月15日に、日本は戦争は終ったと思っていました。その三日目に、ソ連軍は、艦砲討撃と、空爆で、シコムシュ島(千島列島の先端)を攻撃しました。日本軍は、91師団という精鋭部隊で、やむなく応戦し、その為、約600名の戦死者を出したが、ソ連軍は、上陸後、約2000人の死亡者を出したといわれています 吹浦忠正氏
「日ソ共同宣言」まで
 ソ連は、日本が敗色濃厚とみるや、終戦の一週間前(昭和20年8月15日の一週間前)、それまでの、日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、宣戦布告し、戦力低下していた日本を追いつめ、遂には、北方四島を占拠したのである。ソ連は、北方四島どころでなく、北海道の半分位を要求していたが、米国に反対され、その腹いせに、日本の関東軍兵士60万人をシベリアに抑留した。北方領土は、いわゆるドサクサにまぎれて、掌中に収めたのであった。日本とソ連は、国交のないまゝ、10年を経過した。その後、1970年代まで、いわゆる『領土問題は解決済み』と言っていた。その間にも、日本は、1956年(昭和31年)、鳩山首相らが、モスクワを訪ね、領土問題、抑留兵士の帰国問題等の交渉をしたが、領土問題については、日ソ平和条約締結後、歯舞、色丹二島を返すとのソ連側の主張にとどまった。同年10月に、「日ソ共同宣言」に署名、条約締結に至らず、一応の国交回復にとどまったのである。
「東京宣言」とは
 1991年(平成3年)12月、ソ連は解体(共産主義体制の崩壊)した。アメリカが、かりに共産化することがあるとしても、あのソ連が壊れると思っていた人があっただろうか。1993年(平成5年)10月、細川首相と、エリツイン大統領により、「東京宣言」なるもの(領土問題を、北方四島の島名を列挙して、その帰属に関する問題と位置づけるとともに、領土問題を解決するための交渉指針が示された。また、日ソ間のすべての国際約束が、日ロ間で引続き適用されることを確認。)を署名し、気運が盛り上がったが「今では、ロシア側は全く東京宣言」を口にしない。それどころか、今では、昔に逆戻りして、いわゆる「二島(歯舞、色丹)」返還で解決とうそぶいている
ソ連解体後の変貌
 ロシアは、今、ものすごく貧富の差が生じている。石油の原価が高騰し、ロシアは世界屈指の原油生産国なので、労せずして莫大な金が入って来た。一般に労働する意欲が無くなり、働かない、働かないという事は物を造らない。原油で得た金は海外の企業に投資する。一例を上げれば、サハリンでは、すばらしい工場が出来、利益の50%はロシア政府、あとの50%は、日本はじめ外国の商事会社が得、実際の運営はロシア政府と、正に『ロシア丸』である。一番、気の毒なのは、何も知らないあの島に住んでいる人達ですね。島へ行ったら給料は三倍やると言われて来たんです。歯舞、色丹など過去津波が28回も来ている怖い所です。それでも離島しないのは、カニが沢山獲れる世界三大漁場の一つだからです。極言すれば、今のプーチン政権は、莫大な金を得た層と、強権で成立している感があります。再び恐怖政治が来たとも言われています。これでは、われわれの悲願である『北方領土問題』解決は、益々遠ざかると言わざるを得ません。
国際裁判所へは疑問
 「日ソ共同宣言」(1956年)から50年経ちました。この間のソ連(ロシア)の変りようはどうですか。力関係はどうですか、人類初の宇宙飛行、『地球は青い』との乗組員の声、そして今や、何千発と言われる核兵器保有国、そして領土問題は国民投票によるという。ロシアのマスコミも「領土問題」を大々的に取り上げていない。領土問題を「国際裁判所」で解決したらとの意見もありますが、絶対に日本が勝つかと言えばノーと言わざるを得ない。世界中で「領土問題」を提訴しているのは沢山あり、解決は時間的にも更に何十年かかるか、そして結果を考えると決して良いとは言えない。領土問題は、このように裁判で決着する事は、至難なことなのです。
「四島」は固有領土
 「四島」は今だかつて一度もロシア領になった事はないのです。1855年(安政元年)に、日本とロシアは、「日ロ通好条約」を結び、択捉島とその北のウェップ島との間に国境を定めました。以来、両国間に種々な問題や、時には戦争もあったが、「北方四島」に関しては全くノータッチであった。1951年(昭和26年)の「サンフランシスコ平和条約」=(ソ連は不参加)で、千島列島、樺太(現サハリン)を放棄したが、「北方領土」は、千島列島に含まれていないのです。改めて、「北方四島」は日本固有の領土であり、返還を求めるのは、日本の当然の方針である。国是であることを強調したい。一部政治家などが、「二島返還」と云々と言い出すや、ロシア側も「日ソ共同宣言」を持出し、これで解決と言い出したが、歯舞、色丹は、四島の広さの中の僅か7%に過ぎず、話にならない
世論を高め焦らずに
北方四島 かつて、根室市は人口約5万人であったが、現在は約3万人足らずになっている。根室高校の卒業生(若い人)の95%は、根室市を出て行ってしまう。かつて北洋漁業の根拠地であった面影はなく、ここにも高齢化の波が押し寄せ、全体として活気がない。どうしたら運動を盛り上げ、解決へ一歩でも二歩でも近づかせる事が出来るか。特に根室市の皆さんに、希望と元気を出してもらえるか。それは、日本は勿論、ロシアの一般市民への対応、つまり、先ず日本、ロシア双方の世論の高まりこそ、肝要である。去年の4月に、ロシア語のホームページを流しました所、反応が大きく、また、北方領土に関する記事を、ロシアの全国会議員、図書館にも送りました。世論が頼りなのです。日本では、四島の島名までは判らなくとも、「北方領土」という言葉は、一応判ってきたと思いますが、ロシアでは、『知らない。関心ない』が、未だ未だ多数と思います。戦争が終ってから61年と考えないで、『領土問題は解決済』と言っていた相手ロシアが、「東京宣言」から、たった13年と考えて下さい。未だ13年なのです。今まで以上に、政、官、民、財、学が一体となって、バラバラでは、相手を楽にさせるだけです。みなさん、絶対に焦らずを肝に銘じ、手を取り合ってがんばりましょう。

編集後記
◇明けましておめでとうございます。
◇本年も「四島」をよろしくお願いします。 (蓮見)

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