目で見る北方領土  2015 平成27年10月21日(水)~23日(金)

 乗船した船は、別海町観光船の「パワードリーム号」、尾岱沼(おだいとう)港から乗船し、出港してしばらくは、左手に野付半島を見ながら航行した。天候に恵まれ、視界は良好であった。 外海に出ると波が高くなり、立っているのがやっとという状況であった。野付半島から国後島までは16kmの距離、8kmの中間ラインまで近づくことができた。双眼鏡を使い、島に建物を確認するこができた。乗船時間は約1時間半であった

パワードリーム号から国後島を視察 国後島を背に

国  後  島
泊山(543m)、羅臼山(888m)が見え

四島交流センター(ニ・ホ・ロ)にて講話
○ プロフィール:元色丹島民(色丹村 河田 弘登志 氏 (かわたひろとし)
多 楽 島 (歯 舞 群 島) 出身 ・ 昭和20年当時国民学校5年生
○ 当時の多楽島の様子
面積は100k㎡と小さいが、北方四島の人口17,000人のうち、歯舞群島には5,000人以上が住んでいた。島は平らで住みやすく、歯舞群島の中で最も人口密度が高かった。多くの人が漁業を営んでおり、特に昆布漁を主体とていたので、家の前に船をつける必要があり、そのような条件が整っていたのが多楽島であった。島では昆布漁が盛んで、繁忙期は子供も手伝っていた。当時は、祭りや運動会が娯楽の中心で、青年団が仕事の閑散期に演劇の練習を行っていた。北方領土には学校が39校あったが、多楽島には1校、240名の生徒がいた。国民学校6年生までのところ、多楽島は教育熱心な先生がおり、高等科(今で言う中学1年、2年)を作り教鞭をとっていた。。
○ 終戦直後の島の様子
昭和20年8月15日に漁から帰り終戦の報を聞いた後、ソ連軍が8月28日に北方領土に上陸し、9月5日までに四島を占領した。ソ連軍が上陸するという情報を聞き、河田さんは家の屋根に上がり、北の方に見慣れない大きな黒い船を見た。間もなく、自宅にソ連兵が二人一組で土足で入ってきて、日本の兵隊をかくまっていないか、アメリカが来ていないか、武器を持っていないか聞いた。ソ連兵は、次に私物を欲しがった。「とっきー(時計)」、「さっきー(酒)」と言い要求した。当時島の人が頼りにしていた日本の兵隊は、ソ連軍が入ってきて間もなく連行された。日本の兵隊は出身地である三重県に帰れると聞いて笑顔で出て行ったが、実際はシベリアに連れて行かれたとのことだった。
 日本の兵隊がいなくなり、外出が思うようにできなくなった。また、イカ漁にでた際に銃撃された。よく、島を捨てて出てきたと言われるが、一時避難と考えていた。島に残った人は昭和22年から23年にかけて樺太経由で強制送還となった。残っていた人は強制送還となったが、貨物船に荷物同然に積み込まれた。女学校を改装した施設に収容され、施設が開設されるまで船を下りられなかった。食べ物も着る物もなかったが、一番困ったのは船にトイレがないことだった。衛生状況も悪く、航海中にお年寄りや小さい子供が亡くなった。やがて、上陸すると祖父と両親と弟の6人は畳2枚で仕切った場所に入れられた。水をもらうのにも行列ができ、食べ物は塩辛くしたニシンと米がほとんど入っていないようなおかゆだった。家族は1ヶ月程で函館から迎えにきた船に乗せられ、函館に行くことができ、根室で再会することとなった。その後の生活も着のみ着のままで何もなく本当に大変だった。裸一貫できても食べ物も着る物も恵んでくれなかった。木材を集め家を作ったが、土間にはござを敷いていた。普通の生活に戻るのに10年かかった。
○ 返還要求運動について
 根室の町の80%が7月14日、15日の空襲を受け丸焼けとなっており、北方領土からは脱出してきた島民が来る中、昭和20年12月1日に根室市の安藤市長は連合国の保障占領下においてほしいとの陳情書をマッカーサーに出した。それから返還要求運動が始まった。70年たった今は、17,000人いた島民は4割程度となっており、その平均年齢も80歳代である。返還運動を続けるためには二世対策が大切である。その二世も上は70歳である。今は、三世、四世対策をしており、後の人に同引き継いでいくかが課題である。相手には、返還運動は返還されるまで絶対止めないという姿勢を見せなければいけない。また、国の外交交渉をバックアップしなければならない。
○ 北方領土問題についての学校教育
 最近危惧しているのは、北方領土問題が学校教育の中でしっかり勉強されていないことである。毎年教育関係者がきて、北方領土について教えているか聞くが、入試問題に出ないのであまりやらないとのことだった。北海道知事に、北海道が率先して高校入試問題に北方領土問題を出すように頼んだところ毎年出題してくれるようになった。勉強しなければならないという環境を作ることが大事である。
○ 神奈川県と北方領土のつながりについて
 1905年頃、国後島などで蟹の缶詰の製造が盛んになり、横浜で検査し、輸出していた。働いていた女工が歌っていた「根室女工節」の歌詞に、横浜の地名が登場する。【根室女工節】女工女工と見下げるな 女工の詰めたる缶詰は 横浜検査で合格し あら女工さんの手柄は外国までも・・・

四島交流センター(ニ・ホ・ロ) 館内視察
北海道立北方四島交流センター(ニ・ホ・ロ)館内視察  交流センター柿本氏に館内を説明していただいた。メインの展示室は工事中のため、見ることができなかった。

北方館及び納沙布岬
【返還要求運動のはじまり】
 根室市の安藤市長は北方四島の早期返還のため、昭和20年12月1日にマッカーサーに連合国の保障占領下においてほしいと陳情を行った。今も、この日に因み毎年12月1日に、北方領土返還要求アピール行進が行われている
【昭和20年8月15日以降の北方四島】
 8月15日以降ロシアが南下し、4,000人近い戦死者が出た。樺太では8月25日まで戦争が終わっていなかった。ソ連のスターリンは、アメリカのトルーマンに北海道の北半分が欲しいと打診したが一蹴され、北方四島を占領した。
 島民の半分は半年の間に脱出した。エンジンを掛けると見つかってしまうので、小さな小船で遠回りして根室へと向かった。海上で遭難し、未だ見つかっていない人もいる。根室に無事着いた人も、終戦の1ヶ月前に根室の町が大空襲で8割が焼けてしまっており、食べるものも、着る物もない状況だった。避難した島民の方は、3、4ヶ月我慢すれば戻れるという思いでいた。残された島民は、昭和21年2月にソ連が法律改正し北方四島を自国の領土に組み入れたため、警備が厳しくなり、脱出が不可能になった。残された島民は2年間、ソ連の食料生産(缶詰の製造等)をさせられ、その後に強制送還させられた。
【都道府県の石】
 全国各地から寄せられた石のひとつひとつに北方領土返還の祈りがこめられています。全国47都道府県の石を集めた。風雨にさらされ劣化が激しいとのことだった。
【根室の漁業】
 根室の漁師にとって、昆布漁は資金繰りのためにも重要であるが、貝殻島周辺などで漁をするにあたり、ロシア側に9,000万円支払っている(1隻当たり40万円程度)。

 小田嶋館長から、納沙布岬から貝殻島までの距離は3.7kmで、日本の船はその半分の距離までしか行くことができない。かつてはロシアにだ捕されると、船長は2年、一般の人は2ヶ月ほど拘留されていたが、9年前には、35歳の青年が漁の最中にロシアに銃撃により死亡するなど、現在は、だ捕されると命の保障はない。
北方領土返還のシンボル像「四島のかけ橋
 岬近くには北方領土返還と世界平和を祈念するために作られたシンボル像である「四島(しま)のかけ橋」が建てられている。像の下には「祈りの火」と呼ばれる点火灯台があり、この火は沖縄県波照間島から採火したもので、アメリカ占領下から日本復帰へとげた願いをこめて、全国の青年団によるキャラバン隊の手により運ばれた。
【若い世代に北方領土問題を伝える】
 現在元島民の平均年齢は80歳を超えており、若い世代にこの問題を伝えなければいけない。また、ロシアとの交流も正しい歴史を認識して交流することが重要である。多くの方が納沙布に立ってこの占領されている実態を目で見て、多くの方に北方領土問題を語って伝えてほしい。若い世代の方をここに来られるような協力をしていただきたい。

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