北方領土視察 択捉島~色丹島
視察参加者/報告:神奈川県民会議事務局長 綾井 祐一
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散布山  7月7日午後8時15分択捉島へ向け出航、時速10ノット、波が高く、デッキに出ると風と波が厳しかったです。曳航されているロサ・ルゴサⅡ号は木の葉のように揺れて操舵が大変だったと思いました。今から約200年前に高田屋嘉兵衛が辰悦丸(230トンクラスの木造和船)でこの海を航海したことを思い浮かべて先人の偉大さを思いました。写真は散布山(チリップ山1,587m)です。 左のclickボタンをクリックすると大きな写真が見られます。
内岡湾  7月8日色丹島を出て約10時間30分、朝6時45分、択捉島内岡(なよか)湾に投錨。10時、いよいよ択捉島上陸です。当日は択捉島にしてはめずらしい程の快晴だそうです。写真の択捉島側のはしけが迎えにきてくれました。以前からこのはしけは写真で見たことがありましたが、改めての迫力でした。
表敬訪問  10時45分から紗那(シャナ)行政府、スベトロフ「クリル地区」議会議長兼地区長、カルプマン「クリル地区」行政長の出迎えを受け執務室にて表敬訪問。
紗那中学校  そのあと紗那中学校を視察。校舎の一室が歴史郷土博物館になっており、ロシア帝国時代の皇帝からエリツイン、プーチン大統領まで写真が掲示され、その時々の歴史的背景が絵や写真を交えて掲示されていました。1945年までは日本人が住んでおり、それ以前はアイヌ人が居住していたと掲示されていたが、ソ連が占拠したことは書かれていないようでした。よって、戦前日本人が居住していたことは住民は承知しているようです。
対話集会1  11時45分から同校で対話集会が開催され、択捉側からはトルスチェニョフ歴史教師、日本側から大野団長が登壇した。択捉側からテーマとして「農業分野における共同経済活動」について語りたいとの提案がありましたが、訪問団員から我々の訪問目的である領土返還について対話したいと申し入れました。不法占拠に対してどのように考えているのか、また返還する気持ちはあるのかと詰め寄る場面もありました。
対話集会2  同席したロシア人から、「私たちが不法占拠したと思えますか、元々この島はアイヌ人が住んでいた島で日本人がアイヌ人を追い出してしまったのではありませんか、また日本人の100%が返還を求めているのですか」と反論がありました。それに対して、我々は「国を挙げて返還を要求している、当然100%の日本人が返還を求めている」と回答しました。さらに農業問題では「この島の技術は日本と比較するとおくれているのではないか」との問いに対して「日本からの技術支援が欲しい。」との要望がありました。
ホームビジット  対話集会のあとホームビジットを行いました、私はロバストワ・イリーナさん(女性)宅を訪問、ご主人はパシャさん53才で職業は通信技師だそうです、お子さんは二人でお嬢さんはサハリンで化学の先生、ご子息は大学生。イリーナさんは日本やシンガポールやヨーロッパにも行ったことがあるそうで、この家庭はかなり裕福そうに見えました。家の外は板張りで粗末ですが室内はご覧のように綺麗にまとまっていました、また居間の他にベッドルームと狭いキッチンがありました。
択捉島1  この島の中高年の人は外国語は殆ど話せませんが、若い人は英語を若干話すとのことでした。たまたまイリーナさんは英語が話せてお互いに片言の英語で話がはずみました。接待にはとてもお気遣いいただき、恐縮するほどでした。島の住民はとても純朴です。返還問題を解決してお互いの住民が仲良く行き来出来るよう頑張りましょうと話しました。この後ご主人の車で仕事場でもある近くの丘の上に行き斜那市内を一望しました。
ギドロストロイ体育館  夕方6時、ギドロストロイ体育館を視察。インストラクターのガミロワさんから「1日の利用者は平均70人くらいで健康増進に努めている。柔道はサハリン州で1、2位を獲得した。若い人はピクニックやハイキングを楽しんでいる。」との説明でした。このジムの隣では室内テニスを楽しんでいました。
紅茶  これは斜那市内商店街の商品、日頃見慣れたティーバッグです(100パック入り)で190ルーブル(約760円)でした。このお店でタバコを買いましたがロシア製で一箱10ルーブル(約40円)、物価というのは経済の状況と文化のバロメーターだと思いますが、高いか安いかは単純には判断できません。
ロサ・ルゴサⅡ号  夜8時過ぎにはしけで帰船しました。択捉島の一日が過ぎて一息。相当疲れました。8時半頃から船内食堂で団員による意見交換会を国会議員の先生5人を含めて行いました。このビザ無し交流も今年で15年目。民間での交流はそれなりの効果はあったと思われますが、一方で年月を重ねる毎に返還は難しくなってきているように感じます。このため政府に本腰を入れて交渉して貰う必要があると思われます。写真は根室から曳航してきたロサ・ルゴサⅡ号、本船の左舷、ここでしばしの休息。
釣果  7月9日択捉島2日目、朝食後上陸までのしばしの時間船上から釣りをしました。普段釣りをやらない私が糸をたれていたらこんな釣果が。
ロサ・ルゴサ号  ロサ・ルゴサ号の船長さんが見送ってくれました。船の乗組員さんは年配の方々で海の男という感じでさっぱりした人たちです。択捉島2日目出発です。
「ギドロストロイ」水産加工場  10時再上陸。別飛(ベットブ)のオーヨー湾にある「ギドロストロイ」水産加工場を視察しました。この加工場は現在建設中で最新の技術と設備を誇る択捉島自慢の工場です。稼働後は700人の季節労働者を雇う予定との説明がありました。オフィスには社員食堂、休憩室、最新鋭のパソコン(韓国、オランダ製)が設置してあり、インターネットも繋がる予定とのことです。後ろに見える山は散布山です。
停泊船  港に停泊していた船、貨物船でしょうか?近くには軍隊の船も停泊していましたが撮影禁止でした。大きさはこの船の十数倍でしたが、見かけはこの船と同様でした。
事務所の内部  これは事務所の内部、近代的なオフィスで、経理部だそうです、この部屋の他に社長室、副社長室の個室があります。ここで働く正社員の月給は日本円で15万~30万円だそうです。信じられない高給ですが、現地に詳しい日本人通訳に聞いたら本当だそうです。
ベルトコンベアー  これはベルトコンベアーです。アメリカ製でSEATTLE,WASHINGTONと書かれています。日本製品は人道支援を除いて供給出来ないことになっています。
紗那の日本人墓地1  12時から紗那の日本人墓地に墓参しました。オーヨー湾の丘の上、小高いところにあり、ロシア人墓地と一緒の場所にあります。同行の西村氏が読経しました。周りは草が生い茂っていますが、時々現地の人たちが草むしりをしてくれているようです。
紗那の日本人墓地2  池田規子さん(写真手前)は1948年12才の時に生まれ育った(留別村 内保地区)択捉島から強制退去させられたとのことです。めいの板谷紀代子さん(左端)も初めてこの島にきて曾祖父の墓参をしました。
紗那日本人墓地の墓石  この墓地の墓石です。墓石には「本源良道信士、明治廿二年五月十五日亡」、「本月妙法?信女、明治廿三年十月十三日亡」と刻まれていました。この他にも数十基の日本人のお墓がありました。ご冥福をお祈りします。
「漁師の日」のお祭り  墓参のあと有萌(アリモエ)で「漁師の日」のお祭りに参加しました。大勢の人たちが広場に集まり、歌ったり踊ったり。訪問団は室内用ビーチボールを楽しんだり、海苔巻きをつくったり、折り紙、こま、けん玉を子供達に提供したり現地の人たちとの交流に努めました。
クッキング交流  クッキング交流では主に富山県を中心とした女性団員が現地の主婦と一緒に長さ5mほどの海苔巻きをつくりました。現地の人たちにも好評のようで、多くの人たちが海苔巻きを頬張っていました。
スポーツ交流  スポーツ交流では富山県のオリジナルスポーツ、室内ビーチボールを行いました。現地の人たちと混合チームをつくって楽しみました。写真の中年のおじさんは一見日本人風ですが、現地の方で熱が入っていました。
Tシャツ交換  奈良県の奥山さんは、写真左の人とTシャツの交換をしました。赤いシャツの胸にCCCPと書いてあります。ヘリコプターのパイロットで軍人だそうです。身振り手振りの英語とロシア語、ピロートだと英語で、通訳さんに入ってもらってパイロットだということが判りました。ヘリで飛びたいのだけど燃料がなくて飛べないとこぼしていました。
郷土博物館  夕方4時過ぎ、郷土博物館を見学しました。ここには貴重な原石や土器、やじり、サンゴ等が展示され、またアイヌ人が居住していたころの写真がありました。戦前の居住者の写真はありませんでした。
斜那郵便局1  ここが現在保存を検討している日本家屋の斜那郵便局で、最近まで現役で使用していました。周囲はかなり老朽化していて早い手当が期待されます。また内部は事務所の跡が残っていますが、窓ガラスも割れてビニールで覆ってありました。
斜那郵便局2  郵便局の横側ですが、このアングルの写真は見たことがないので載せました。かなり老朽化が進んでいることが判ります。この郵便局は明治18年2月に開局し、昭和5年に無線電信局が設置され、昭和20年8月28日、択捉島にソ連軍が上陸したことを根室落石郵便局長宛に打電しました。
択捉島水産會事務所  ここが択捉島水産會事務所です。当時地元の「択捉漁業会」の他、国や道の出先機関の函館税関出張所、北海道水産物検査所が入っていました。昭和20年以降ソ連の住宅供給事務所、地区共産党議会事務所、新聞社、全ソ連邦陸海空義勇団が使用していましたが、2001年から空き家になっていて老朽化が著しい状況です。
ヤンケトウ草原  5時30分から夕食会がカフェ「エトロフ」で開かれクリル地区行政長等を交えて会食、視察対応のお礼を述べるとともに一日も早い返還を要望して別れました。そのあとヤンケトウ草原を視察して択捉島をあとにしました。ニッコウキスゲ?の花が一面に咲いてとても綺麗でした。
寄港  夜8時はしけに移乗、多くの地元の人たちに見送られ帰船した。帰船後直ぐに国後島古釜布へ向け出航、翌日午前8時40分国後島古釜布港へ投錨、9時50分根室港へ向け出航、約4時間後、日本時間12時40分無事根室港へ着岸した。下船後午後1時から千島会館にて幹事県の大野団長他、国会議員の方々が記者会見を行った。
 平成18年7月4日夕方根室着、翌日5日は朝から一日事前研修、6日朝早く島へ向けて出発、我が家を出て約一週間の視察旅行であったが、この目で実際に現地を見、島の人々と語り、実りの多い視察研修旅行でした。神奈川県民会議が発足して満20年、毎年県民大会を開いて講師の先生からロシア情勢を聞いてきましたが、百聞は一見に如かず、この視察研修でこの問題の難しさが身にしみました。
 島に住んでいる人たちは島に生まれて、島で育ち、島を育て、島には親の墓がある。近所には子供のころから親しんだ隣人、友人がいて楽しい生活をしている、島のインフラは悪いけど食べるには困らない。ロシア政府も今後10年間で1、000億円を投じ島のインフラ整備を行うと発表している。新しく出来る水産加工所の月給が20万円前後と島の経済状況は益々好転していく。
 平成4年からはじまったビザ無し交流も今年で15年目を迎えた。双方で約13,000人が交流し友情と信頼は出来てきた。しかし前述したように島の人たちは絶対に返したくないというのが本音なのではないか。年を追う毎に返還は難しくなって来ていることを実感。同行したこの島で育った元住民や親や先祖の墓がある2世の人たちの無念さは如何ばかりか。今後政府には強い姿勢で外交交渉を行っていただき、一日も早い返還を実現して欲しい。
 最後になりましたが、ご一緒させていただいた訪問団員の皆様、北方領土問題対策協会の井上理事長他スタッフの皆様、大変お世話になりました。あらためてお礼申し上げます。
 最後までご覧いただきありがとうございました。出来るだけ忠実に記録したつもりですが、不適切な記述等がありましたらご指摘いただきたくお願い致します。(文責:綾井祐一)
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