北方領土視察 択捉島~色丹島
視察参加者/報告:神奈川県民会議事務局長 綾井 祐一
一覧形式でご覧になりたい方は こちらのページをご覧ください。 四島の地図はこちらです
ロサ・ルゴサ号  平成18年7月6日~10日まで色丹島と択捉島を視察しました。総員63名のうち今回は、国会議員の方々が5名参加されました。7月6日、根室市の関係者に見送られ、9時25分根室港を出発しました。左の船は今回の視察で利用したロサ・ルゴサ号(Rosa rugosa.)。ハマナスの意、480トン、これから出発です。
左のclickボタンをクリックすると大きな写真が見られます
国後島からの船  根室港を出発してから4時間30分、15時55分国後島古釜布(フルカマップ)湾到着。(時差は+2時間、以降現地時間で表示します。)。島には上陸せず、船上にて入域手続きを終えました。写真の右側の船が国後島からきた船です。日本の船名が刻印されていましたが、白く塗りつぶしてあり、ロシア語の船名が書いてありました
古釜布湾  入域手続きを終え、17時10分、色丹島穴澗(アナマ)湾に向け出向しました。写真は国後島古釜布湾、緑が多く美しい風景ですが、廃船が多く見られます。このあと色丹島、択捉島でもいたるところに廃船が見られます。
穴澗湾1  国後島を出発して3時間20分。21時30分に色丹島穴澗湾に到着錨泊しました。この時期日本時間午前3時過ぎには薄明るくなります。朝食は7時からです(日本時間では5時)。船室は、結構狭い一人畳一畳分。若い頃の研修を思い出す。しかし快適な航海です。夜は船室で談笑したり小宴会。10時頃に就寝しました。この写真は穴澗湾という名の穏やかできれいな湾です。写真は翌朝撮影したものです。
穴澗湾2  この写真も穴澗湾です。アヒルが子供を背負ったような岩がありました、周りの丘はなだらかで、緑に覆われています。芦ノ湖から箱根の山を見ているような感じがしました。
穴澗湾3  その横にはこのような廃船がありました。いたるところに廃船があります。このあと穴澗港が出てきますが、廃船を利用して桟橋にしていたり、現地の人のエネルギーを感じるとともに、経済的にはまだまだ厳しいのかと思いました。
桟橋1  ここが桟橋です。水深5mくらい、右側に見える廃船に板張りの桟橋をくくり付けたものです。根室から曳航したはしけロサ・ルゴサⅡ号で上陸しました。
桟橋2  これが桟橋の全体です。当日は雨で気温は10度℃くらいで、肌寒くコートが必要でした。このあと9時45分から港の直ぐ横にある水産加工場の見学です。
クラボザボーツク  40分間程度で水産加工場:非公開株式会社「クラボザボーツク」を視察しました。穴澗湾桟橋の直ぐ横にあります。
レーニン胸像  これはレーニンの胸像です。水産加工場の前の荷物置き場のようなところで、潰れかけたコンテナの上に乗っかっています。意味ありげです。
水産加工場内部  水産加工場の内部、サケ、マス、カニの缶詰の生産やタラの加工をしています。副工場長の説明によると、600人が就労、主に臨時雇用です。12時間2交代で、賃金は1日1000ルーブル(日本円で約4000円)。工場は常時稼働しているわけではなく、まとまった漁獲量が確保出来た時に稼働するとのことでした。サハリンやロシア本土や外国やへ供給しています。見学当日は稼働しておりませんでした。賃金は予想外に高くてビックリ、但し短期間雇用とのことです。
自動車  水産加工場から8台の車で10分ほど移動、10時40分から文化会館で歓迎式と意見交換会を行いました。移動に利用した車両は日本製の中古車で、ほとんどが4WDの車両、7万円程度で購入し自分たちで修理して使用しているとのことです。訪問した2島は舗装道路は皆無で、セダン車は見かけませんでした。手前奥に見える建物が文化会館です。
文化会館1  文化会館に入ると民族衣装をまとった美しいお嬢さんが塩パンで出迎えてくれました。一切れずついただいて会館の中へ。会館の中は小さな映画館のような雰囲気で、昔流行したザ・ピーナツの「情熱の花?」の曲で迎えていただきました。
文化会館2  文化会館ではセディフ穴澗村長、ダネリア「南クリル地区」議会副議長らの歓迎を受けました。色丹島には現在3200人ほどの住民が生活している。1994年の地震で大きな被害を受け住民も減ったが最近は増えつつあるとのこと。日本の人道援助には感謝している。経済状態は以前よりも良くなってきており、10年後には自力で日本と同じ程度までインフラの整備が出来ると話しておられました。
意見交換会  意見交換会では今回参加した斉藤斗志二衆議院議員が登壇。1854年下田に停泊中のロシア船「デェアナ号」は、津波の被害で大破し沈没。宮島村民により全員救助。その後、両国船員の協力で「ディアナ号」が建造され、乗組員はロシアに帰国しました。1855年2月、下田において「日露通交条約」が調印されました。昨年日露友好関係樹立150周年を記念して下田で記念碑が建立されました。両国の友好の確認と、領土問題の解決にお互い努力しようと村長と握手をしました。
穴澗小・中学校  人道支援施設:穴澗小・中学校視察。この施設は日本の人道支援により建設され、現在プレハブ校舎です。102名が在学中。この日は夏休みで日本人の先生から日本語を学んでいました。日本語の習得には親子とも熱心です。島には大学が無いので、将来は大陸の大学に進学する子が多いようです。隣接地に大きな校舎と体育館を建設中です。完成すると200名収容できます。因みに、日本政府は、教育、医療関係等の人道支援以外の支援は行っていないそうです。
斜古丹  斜古丹(シャコタン)で昼食、食材は魚が多い。肉が中心と思っていたが、肉や野菜は結構貴重で高価の様子。牧草地帯には乳牛も若干いたがやせ気味。畑も少なく、意見交換会では農耕・畜産技術を日本から教えて欲しいとの要望がありました。
日本人墓地1  昼食後、斜古丹湾の丘の上にある日本人墓地を墓参した。面積400㎡程度の墓地です。同行した岩清水、桜井両氏により祝詞が捧げられた。中央にある碑は平成13年自由訪問団が建立したもの。
日本人墓地2  墓地には日本人とクリル人の二つの碑がありました。周りには日本人の墓石が10数基建っていました。明治、大正、昭和に建墓されたものです。
稲茂尻日本人墓地  斜古丹墓地墓参のあとロシア正教会を視察し、車で30分、3時30分に稲茂尻(イネモシリ)日本人墓地で墓参しました。同行の西村氏により読経されました。この地は海岸近くにあり、とても景色のよいところで、日本人だけの墓地でした。
戦車  戦車の残骸です。ロシア教会の近くに放置されていました。廃船、廃家、廃品、等々何故か多いです。道路の途中には大きなゴミ捨て場のような場所があって、粗大ゴミが放置されていました。
墓石  稲茂尻日本人墓地内の日本人の墓石です。立派な墓石で比較的きれいになっていました。「○○家永代之墓」と書いてありますが、残念ですが名前が読めませんでした。
稲茂尻海岸  稲茂尻海岸です、墓地から徒歩2分くらい、景色が美しい海岸です。現地の人は殆どいません。散策していたら、沖から漁師さんがボートでかけつけ?バフンウニをいっぱい戴きました人なつこい純朴な漁師さんという感じです。
穴澗市街地  稲茂尻海岸を後にして穴澗市街地の商店街を覗きました。日用品はなんでも揃っています。製品は韓国や中国製品が多いようです。勿論日本製品はありません。野菜・果物の品質は日本と比べるともう一つ。値段も高いように思えました。トマトが一個100円くらいしていました。お店の広さは日本の中規模コンビニエンス・ストアくらいです。
フライパン  お店で見つけたフライパンです。値段が結構高いです。2,500ルーブルですから日本円で約10,000円程度です。こんな感じなので島では特に買いたいものは少ないです。
交流夕食会  17時30分から穴澗市街地レストラン「インペリアル」で交流夕食会を行いました、セディフ穴澗村長も出席され、それぞれのテーブルには現地の人も加わり、和やかに会食しました。島の返還について聞きましたが「自分たちはこの島で生まれて育ってきた、個人的には日本人と一緒に仲良く生活してもよいが難しい問題は政府が決めることだ」と模範的な回答でした。
日没  19時30分、ロサ・ルゴサⅡ号で帰船、一日の色丹島訪問が終わった。平成6年5月神奈川県民会議で北方四島ロシア人訪問団61名を受け入れた、その時の意見交換会では島の住民は給料も半年間不払いで島の生活も苦しい、日本に返還しても良いと思うという人が7割近くいたように覚えています。しかし、今回訪問して感じたことは以前色丹島の住民は返還支持者が多くいたが、現在は経済状態も良くなり返還しないでこのまま生活したいというのが本音だと感じました。年月を重ねる毎に返還は難しくなるというのが実感。
色丹島を後にして択捉島へ

Copyright(c), 北方領土返還要求運動神奈川県民会議 All Rights Reserved. since march. 31. 2005
事務局: 〒231-8588 神奈川県横浜市中区日本大通1
神奈川県県民局総務室内 電話:045-210-3618